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◆神武以前三代記 瓊瓊杵尊―彦火々出見尊―鵜葺草葺不合尊 |
第2章 瓊瓊杵尊の足跡(その4)
前文で実は天孫降臨は二組あり、戦前の神話教育では瓊瓊杵尊の降臨が天孫降臨と言われたと述べました。この部分は神話では一番大切な部分で、天上の高い国で偉大なる女の神様天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)が孫の瓊瓊杵尊に手ずから三種の神器を渡して、『眼下に見える国は多くの悪者が蔓延って大変に乱れている。汝は此の国に降り賊共を征伐して、立派な国として治めよ』と命令したと伝えていました。秀真伝では、今の三重県伊雑で天照大神若仁君が御機織留の文(織機で織った布に古代文字で国の継承の事柄が述べてある・・筆者)を瓊瓊杵尊に、八咫の御鏡(大変大きな銅鏡或るいは白銅鏡・・筆者)を正妃の瀬織津姫が天児屋根命(兵主命の子供・・後年の藤原氏の先祖)に、八重垣劒を側室の速開津姫が子守神(事代主命の子供・・三代目大物主命)に手渡し、若仁君(天照大神)は『政治を国に例えれば鳥である。鳥全体は八民である。首は君である。鏡臣は左羽、剣臣は右羽、物部(兵隊)は足である。鏡臣の子孫が滅べば政治から民が離れてしまい国が滅びる。剣臣の子孫が無くなれば物部が分裂して矢張り滅びる。鏡は田畑の作物が萌える春のような心で、剣は邪心を持つ者を懲らしめる物部の力の守りである』と諭したと記されています。この降臨の目的はこの列島の広い範囲の新田開発でした。山本健造氏の著書【神武以前】には多数の飛騨の民が供奉したと述べています。新田開発には多数の大民の労働力が必要です。その後の飛騨と皇室との関係を考えれば合点が行く考察でないかと考えられます。三種の神器を櫃に入れ、先駆けを務めたのは天手力雄命でした。神代神話では神話天岩戸の大きな扉を引き開けて、大神を外に連れ出したとして有名な神様です。この神様、実は天照大神の姉和歌姫と思兼命夫妻の間の神様で頭脳明晰の大丈夫でした。総勢は矢張り可成の数であったと思います。伊勢の国を立って先ず大和の飛鳥の宮の奇玉火乃明尊に挨拶を済ませ、難波、西宮と進み、神埼に大井戸を掘り、丹波の国の天の橋立の近くにある真名井で曾祖父豊受大神(伊勢神宮外宮の祭神)の御陵に幤(へい)吊(はく)を納め、目的が無事に全うされる様に祈願します。ついで滋賀県高島郡万木村の土地を新田にするため井戸や用水を掘り水を引き成功します。更に琵琶湖周辺を進みますと、尊の行進をさえぎる様に赤い顔の大男が昼寝をしています。先行の供の者が邪魔者が居て進めませんと注進してきます。供をしてきた天鈿女(あねのうずめ)命(みこと)がその男にあって質問すると、その男が猿田彦命で、尊一行を助け途中まで同行したいとのことでした。この猿田彦命が大活躍します。多くの家来を使って嶮しい山の岩肌を砕き路を開き、滋賀県野洲郡にある三上山を嵩上し、井堰を造りそれにより水田もできました。尊は大変のその功績を讃えて、猿田彦命が大変好きになってしまつた鈿女命と娶(め)合(あわ)せ、鈿女命に猿部の名を与え猿部君と号しました。今は能楽と云いますが、江戸時代の終わりまでは猿楽の能と言われていました。能とは物語がある踊りの事で、猿楽の能のそもそもの始まりは此の天鈿女命から始まったのではないかと考えています。三尾を開拓し、瑞穂も垂れさがる水田が造り出され民を潤した事を目出てこの仮宮を瑞穂の宮と名付けますが、その後此の宮が最も重要な宮になります。一行は更に祖父伊奘諾が多賀の神と祀られている多賀の宮、今の多賀大社に詣で幤(ぬさ)を捧げ、美濃の国、更には信濃に歩を伸ばし諏訪より原見山(富士山)に向かいます。富士は今のように高い山ではなく裾野が広く緑溢れる水田には絶好な地型でした。湧水が豊富で当時の傾斜を利用した棚田には最適でした。当時からあった富士三湖(当時は三湖でした)の用水を利用し広い水田を作ったとしています。新治の民も噂を聴き多くの民もこれに参加し、広大な水田が出現し素晴らしい景色になった秀真伝は伝えて居ます。その後尊は酒折の宮に渡御されました。前述した葦津姫と一夜を過ごしたのはこの時でした。
瓊瓊杵尊の一回目の新田開発の巡行は終わり尊は新治(にいはり)に帰ります。今の筑西市(旧下館市)に良く整備された【にいはりの里】があり、2度も現地を訪れたことが有ります。休日を利用して行きますので、資料館は有るのですが常に休館でした。しかし地型や周りの山の様子、その他考古学書などの知識で弥生時代の状況はおぼろげながら解った様な気がします。この地方には他処にはない星宮神社の名で茨城・栃木を中心に百数十社の小さな神社があります。多分古代の新治の民の後裔が建立した産土神でしょう。新治の宮は多分「星宮か星の宮」と言われたのでないかと推測しています。そこで踐祚(せんぞ)の大礼が行われ瓊瓊杵尊は正式に忍穂耳尊から高皇産(たかみむす)霊(び)の王権を継がれました。
補佐役の天児屋根命は鹿島の宮で年を越し、子守神は日高見の国に行きそこで井堰(いせき)を築き、更に日(ひ)隅(すみ)(津軽の国)に行きそこで高齢で生在している大己(おおむ)貴(なちの)命(みこと)(大国主命)に最後と思われる挨拶をされました。大己貴命は思いも掛けない孫の子守神が遠路訪ねてくれた事を大変に喜び、別れを惜しまれて国境まで見送ったとつたえております。子守神は日本海の海辺を西に向かい計画に沿い新田を次々に開発し、佐渡や越後にも新田・井椻を作り国の繁栄に尽くされました。
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