おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(1)
 
 日本語は覚えるには、そんなに難しい言葉ではない。しかし漢字は別だと一様に外人は言う。お隣の中国ではその漢字一筋で二千年を超える日々の歴史を刻んできた。一般の中国人がすらすらとその漢字を理解しているか疑問も湧くが、たいしたものだとよく思う。万事、改良が得意な日本人は平仮名、片仮名を考え出し、日本語を美しい余韻が残る言葉に成長させた。私自身も本当にそう思うが、外国の人から見れば果たしてその様に思われているか・・・

 平仮名・片仮名が世に出る前は万葉仮名が使われていて、古事記や万葉集の膨大な語録は、その集積である。各個人の読み方にも大きく差異があり理解した文意も微妙に違っていたのでないかと、時々そう思う。戦前の歴史では応神天皇の御代、漢の高祖の後裔王仁が百済から来日して『論語』『千字文』をたてまつり日継の太子、宇治稚郎子の師となった。これが我が国に文字が伝わった初めであると教わった。戦後の百科事典を見ると、いささか異なった説明が記されてある。履中期に東漢氏の祖、阿知使主と共に大和朝廷の記録をつかさどった人物、西文氏(かわちのふみ)が自らの祖であるとしたのが王仁で、王仁は伝説上の人であるとなっている。昭和の中期、松本善之助氏が偶然に神田の古本屋で発見した超古代の史書秀真伝(ホツマツタエ)が毎日新聞で紹介され、記載されたホツマ文字も話題の中心になった。しかし秀真伝の年季の表現は非現実的であり史学者の多くからは真っ赤な偽書であると決めつけられているのが現状である。その主な根拠は『古語拾遺』(こごしゅうい)の中の一文で、807年平城天皇の下問に応じて斎部広成(いんべひろなり)が撰上した一巻中に「古来我が国に文字無し」とはっきり記載されている事実である。この一巻は太古から祭祀にたずさわってきた斎部氏が同僚の中臣氏に押されて振るわないのを慨嘆し、天皇に呈出したいわば抗議文とも復活を意図した嘆願文ともいえる。斎部氏は太玉命の後裔であり、中臣氏は兵主命―天の児屋根命の後裔で、共に天照大神からの重臣であった。それが余りにも大きな格差が生じ、斎部氏には耐えきれない不満であったと考える。古来我が国には文字があった。私には何かその様に思えてならない。漢字の様に一国の統一された文字ではなく、各豪族が記録を後世に残すべく文字または文字に準じる記号をもち、それを自由に読み、書く事が出来る極少数の世襲的役職があり、その記録は家宝に近い重要なものだった、と推測している。秀真伝の内容は微に入り細を語る七五調の長歌が綿々と続く。小説のごとき偽事ならば必ず矛盾がでて馬脚を表すものだ。読んでいて一部には後世の訳者が付け加えたような合理を欠く流れもあるが記紀と対比すれば月とスッポン、真さに生きている歴史だと思う。この印象は秀真伝を読めば読むほど強くなって来る。

 より良き理解と知識の薫淨のため、秀真伝が説くわが国創生の記述に、身を知らぬ不遜の極みではあるが、私見を上乗せしこの文を進めていきたい。



 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9