おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(14)
 
  前述したが全国浅間神社のそもそもの総祖社は富士大神宮で富士北麓にあり、その地は當時天都と云われ全国一の大社であった。第八代考霊天皇の時代素戔鳴命の後裔尾張張田彦が宮司として赴任してきている。新・日本神社100選に詳細に述べてあるが、富士大神宮は富士大爆発の延暦19年大神宮の壊滅的な被害により三社に分社化した。富士大神宮が何故、又、何時現在の浅間神社の名になったか、明らかな年代は尚私には不明だが、776年坂上田村麿の父刈田麿が勅使として阿祖谷に登り大神宮に参詣、此の神は我が国に最初に現れた神だから先現大神という様伝えたという。又、952年に勅願により、社地が阿祖山にあったことより阿座間明神と変わり、阿座間と浅間が混同され、次第に浅間が慣用され、現在ではアサマでもセンゲンの名でも良いと、はなはだ無責任な次第となっている。全国で浅間神社を名乗る神社は多く、静岡県で10社、山梨間県では8社、全国に散在し子安の神として信仰の対象となっている。
 古代には浅間神社には天照大神と瓊瓊杵尊・木花咲哉姫が合祀され、信仰の目的が現世利益を願う傾向が次第に強くなってきた後世、子供の健康成長を願う子安信仰の台頭により浅間神社は次第に木花咲哉姫が主祭神となったのでないかと、不勉強の私は考えている。






 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9