おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(8)
 
 やがて終戦後の昭和の中頃、世に隠れ、日の目を見なかった秀真伝が松本善之助氏により神田の古本屋の棚で発見さがれ、神代の思いもしなかった意外の事実を我々は今見聞きする事が出来る。
 文の冒頭に述べた木花咲哉姫と浅間神社・子安神社の関連を中心として、記紀の如き御伽の神話物語でなく、現代に通じる現実味あふれる秀真の記述から、今と変わらない人間どうしの強欲と軋轢の間を、唯、おろおろと這えずり歩く、神代の人たちの物語を紹介したいと思う。
 若仁天照大神は幼くして所謂帝王学の教えを学ぶため遠く日高見の豊受大神の元で成長した。弥生時代の成長期、海上の交通も丸木船より大型の構造船の出現により、近海の交通、さらに大陸との行き来も、常に死を覚悟する程至難ではなくなった。これは天照大神の高皇産霊皇統にとり大陸方面よりの侵攻に対し常に対応できる体態の確立が必要になったことを示す。私は海上交通網を一切取り仕切っていた猿田彦命の進言により、天照大神が新しい都を日本海に近く防御にも便利な飛騨高山盆地に選んだと考えている。これに関し既に拙著でその考えに達した根拠を述べているので詳細を省くが、日本書紀・秀真伝の記述を塾読・比較すれば、多くの同じ意見の賛同者を得る事が出来ると思っている。天照大神は長寿を全うし、在位の年を積むごとにその非凡の才能を行使したと考えているが、非凡の余り自分の近親に対しやや独裁的の行動が記紀や秀真伝の事述からみてとれる。戦前の教えの天孫降臨と日向の高千穂の峰への進攻も、大陸からの圧力への対策の一環であるが、秀真伝によると実は天孫降臨は二組あった。高皇産霊は遠く仙台に近い日高見に都を定めたが、縄文中期の温暖の気候への回帰は望めない事が現実となり、稲作中心の農業にはやはり東北は関東・近畿より効率が劣っていた。九州は既に大陸からの移住民で溢れ、進んだ農耕技術で人口の爆発的増加が考えられ、余った力で列島中央部に集団で移住してくる脅威を肌で感じていた。引退し伊雑に移った大神の威光は尚絶大で、東北日高見の地は国の中心からも北に外ずれ過ぎ、京都から奈良周辺の平坦地は當時とすれば列島一の平坦な平野であった。天照を継いで二代目の君であつた忍穂耳尊に、天照君は東北から国の中心奈良盆地に遷都するよう要請したのである。忍穂耳尊は幼少から病弱であった。そのためか自ら先頭に立って行動するタイプの御方で無かったようだ。此の度の大任は自身でなく息子の皇子に任せ下さるよう大神に願い出たのである。その許可が下りると、忍穂耳尊は兄の奇玉火乃明饒速日尊に自ら十種の神宝を手渡し、皇子の母方の叔父の太玉命を後見人に、事代主命(二代目大物主命)と天児屋根命を脇役とし、多くの武人を警護として周りを固め、畿内奈良盆地に出立した。多くの神宝を手ずから皇子に渡した事は、忍穂耳尊が二代目の大君の位を三代目に委譲した事を意味すると考える。部隊は陸路をとった。



 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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