おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

その時歴史が動いた・箸墓古墳(4)

 大国魂神と大国主命は非常に似ている。記録・情報が少ない時代では混同され、いつの間にか大国主命が大三輪神社の祭神とされるようになった。「これは出雲の策動なのです」と『明らかにされた神武以前』『裏古事記』の著者山本健造氏は力説している。
 当時、大物主家の大和の於ける権力は強大であった。例を近世にとれば豊臣氏と徳川氏の関係ではないか。家康は臣下の礼をとはつているが、他将とは違い、豊家と殆ど同格であった。代代皇后が出て大物主家は外戚として権勢極まりないが、代を重ねる程にその力は落ちてくる。そして孝霊天皇に至って完全に系列から外れるのである。歴史は動きだしたのである。

 七代皇后は大日本根子彦国玖琉尊(八代孝元天皇)、妃の国香媛は倭迹迹(やまととと)日百襲媛(ひももそひめ)(箸墓古墳の主)と彦五十狭芹尊(吉備津彦命)を生でいる。吉備津彦命は後に吉備上・下道臣の祖となる。分かりやすく云えば妾腹の子で、吉備に養子に出された。そして吉備王国を強大な権力者とするに十分な力を発揮したのである。また別の妃はえいろどは稚武彦命を生んで、吉備津彦と同じく吉備下道に縁組し、傘臣として以後数代絶大の権力を得る事となる。
 八代孝元天皇の皇后は鬱色雄の妹鬱色謎命でやはり出雲系とは全く縁がない穂積臣の遠祖であった。鬱色謎皇后は二人の男子、一人の女子を産んでいる。大彦尊、二番目は稚日本根子彦日日天皇(九代開化天皇)である。
 古代の天皇は多くの妃を持つことが義務になっていたようだ。古代文書の内、秀真伝(ほつまつたえ)と三笠文は天照大神は男性であったとしている。その大神の御代十二人の妃を東西南北に配し、そのうちの一人を皇后に選んだ。現在の皇室典範のごとく習わしになっていた。その後各代の天皇がそれにならつて十二人の妃を抱えていたか不明であるが、記紀の記述から少なくても三人はいた。孝元天皇の例に洩れず多数の妃がいた。皇后鬱色謎媛の兄は鬱色雄で次兄は臍杵命(へそきねみこと)である。孝元十一年三月、天皇は妹の倭迹迹日百襲媛と共に大臍杵の家に行幸した。そこで大臍杵命の女、伊香色謎(いかかしこめ)が傍にはべり、お給仕をした。天皇は伊香色謎を気にいり内待后として宮廷にとどめた。伊香色謎は未だ十四歳で天皇とはかなりの年齢差があったと思う。伊香色謎は彦太信命を生んだ。記紀には伊香色謎の名とその子のことの記載はあるが、それ以上はない。

 秀真伝は詳しい。それに基づけば皇后鬱色謎とは叔母(伯母)・姪の関係になる。皇后と内待后の二人を持ち穂積鬱色雄は外戚として強力にのしあがって来るのは当然である。外戚から外れ権力基盤が弱っている大物主家にとり喜ばしい事ではない。しかし天皇は大物主家に対し何かと気配りを続けていた。孝元九年夏、雨が四十日も降り止まず、琵琶湖の水が溢れだした。山背一帯の田圃が水浸しになり、大きな難局にさらされた。天皇は大御気主命を伺教人として神に祈らせた。三尾にある田中神社の大己貴命の大御気主命は加護を祈って晴天をもたらし、稲を復活させた。大御気主命は祭り大臣と名づけられ、大いに面目を保つ事ができた。

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