おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

その時歴史が動いた・箸墓古墳(7)

 この先を古事記の文に従いまた平易の言葉で進めると、駅使を四方に分散して意富多多泥古(大田田根子)と云う人を探し求めると、河内の国の美努の村にその人を発見し、天皇のもとに送り届けた。「天皇が汝は誰の子か」と問うと「我は大物主の大神が陶津耳命の女活玉依比売を娶りて生みためえる・・・その後孫意富多多泥古といいます」と答えたので天皇は大変生み喜び夢のお告げの通り大田田根子を神主として御諸山の大三輪神社を敬い祀ると、疫病はことごとく息(や)んで、国中が又平穏になった。

 国の存亡を懸ける大事件であった筈だ。箸墓古墳の主、倭迹迹日百襲媛に神が慿いて口走った時からこの大事がはじまった。
 記述が重複するが理解を深めるため、七代孝霊天皇の御子たちも姻戚関係を整理しょう。孝霊天皇皇后細媛は次の孝元天皇を生んだ。他の妃倭国香媛は倭迹迹曰百襲と彦五十狭芹彦命を生んでおる。庶子であるため吉備に婿入りして吉備津彦命となり吉備王国をより強大にした。又、他の妃はへいろどは稚武彦命を生み、同じく吉備下道笠臣の祖となっている。

 吉備王国としては天皇の外戚として急に力をつけてきた物部の穂積一族が行く手をはばむ当面の相手となった。開化天皇諫言の失敗によりその地位を失いすっかり勢力を落とした大物主家の力を吉備は必要としていたのである。
 一方,大物主家としては開化帝の死後、次の崇神天皇に何とかお願いして名誉挽回することが眼目であった。この二つの大氏族の接点が百襲媛であったため、あらゆる手段を使って媛に接近し、遂に神のお告げとして天皇に直訴する大芝居を打ったのであろう。天皇と同じ夢を同時に三人の宮廷人がみたという話に至っては、その間の周到な根回しが手に取るごとく分かる。大田田根子は大御気主の孫で、工作の中心人物は大田田根子と二人の吉備の首長となった皇子であり、初めから大田田根子の目論見ははっきりとしていた。全てが筋書きどおりに進んだ芝居であった。天皇も一枚かんたいたかの詮索は外に置いて、大物主家の中央復帰が成功し、吉備一族の天皇家を凌ぐ権勢が確立するのである。吉備と出雲は国津神であり、穂積物部は天津神に属する、天孫降臨以来邇邇芸尊を支えてきた天児屋命・大玉命・石行乳姥命ら天津神らも、若し神武以来確執が続いていたならば、同時に勢力の失墜を示すもので、まさしく歴史が動いたのである。

 当然のことながら全国各地に根を下ろしていた高天原族がこの権力後退をだまって居る筈がない。国が太平になったと記紀は述べているが、疫病治まった一方で国全体を巻き込む騒乱の兆しが生じていたとも考えられる。崇神十年、大田田根子復権の二年後、その騒乱の芽を摘むべく有名な四道将軍の派遣が始まる。大彦命を北陸に遣す。武淳川別を東海十二国へ、吉備津彦をもつて西の道山陽道へ、丹波道主命を丹波へと日本書紀は述べている。大彦命の北陸が一番の大任であった。北陸に行くには尾張・美濃・飛騨・越中と越えなければならない。美濃・飛騨が実は一番の目的地であったと私は考えている。

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