大彦命はしたたか者であつた。大御気主の如く正面きって諫言するのでなく、神を使って天皇の女遊びを激しく諌め、政権の危機を救ったのあった。大内乱の出鼻を挫かれ、各地の騒乱の機運は次第に沈静に向かい、四道将軍の派遣は成功する。 その後、倭迹迹曰百襲媛は大物主と結婚をする。孝霊天皇の娘であるから、すでにかなりの姥桜であった筈である。大物主とはこの場合大田田根子を指すのであろう。 「しかれどもこの神は常に昼には見えずして夜のみ来す。百襲媛夫に語りて曰く『君常に昼は見たまわねば、分明にその尊顔を見る事を得ず。願はくばしばらくとどまりたまへ。明旦に仰ぎて麗しき威儀見たてまつらんと思う』といふ」 それはもっともな事だ。では明朝姫の櫛笱に入って居よう。しかし私の姿を見て驚かないでくれ、と大物主神が変なことを言うと次の朝櫛笱の中をみれば、ちいさな美しい衣の紐のような蛇が入っていたので、媛は驚き泣き叫んでしまう。 「汝忍びずして我に恥せつ、我還りて、汝に恥せむ」 吉備と出雲を結集させ、政治主権を完全に手中にした兄吉津彦は、百襲媛の死を大変に悲しみ、慙愧(ざんき)の念を込めて天皇の陵を凌駕(りょうが)する大きな古墳をつくる。 「この墓は日は人が作り、夜は神が作る。故、大阪山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまで大民相踝ぎて手ごしにて運ぶ」 昼夜兼行で一列に並んで手送りで石を運んだとある。奴隷のごとく使ったと考えがちだが、過剰な使役は人民の反感をかう。吉備の財力を示すため、又新しい政権体制が人気を得るため、今でいえば金のバラマキ、手当の多い夜間工事をあえて実行に移したのでないか。 今、話題の箸墓古墳はこのようにして出来たのである。卑弥呼の墓でもなく神宮皇后の墓でもないのだ。多くの古墳と同じく箸墓古墳も宮内庁の厳重な管理下に置かれて発掘は許されない。過日調査のため古墳の前方部を調べたところ、吉備系の祭器の破片が大量に出たとのことである。科学的にも歴史の事実を裏付けるものであると私は思っている。 <了>
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