おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆その時歴史が動いた・箸墓古墳(2)

 日本書紀は漢文体で書かれている。中国人に言わせると、崩れた変な漢文だそうだ。帰化人で恐らく十世ぐらいの役人が中心となり作り上げたのであろう。それが事実かもしれぬ。分かり易く漢字交じり流し文で日本書紀のその部分を抜粋してみよう。

「誠に皇都を開き広めて、大壮(おおとの)(御殿)を規り作るべし。・・・巣に棲み穴に住みて習俗惟常となりたり。夫れ大人制をたてて義必ず時に従う。苟くも民に利有らば何んぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。まさに山林を披き払い宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて元元(おおみたから)を鎮むべし・・・観れば天の畝傍山の東南の橿原の地はけだし国のものかの区か。都作るべし、とのたまう」

 洞窟に棲み、竪穴住居に住むのに慣れて何とも思っていないが、山林を開き宮殿を作ろう。それが国のため人民の利益になるのなら聖の道に決してはずれない事だ。畝傍山の東南の橿原の地が山深く障碍物もないから絶好の場所だし、人が集まるには大変によい。この地にしょう の意味である。

「この月、即ち有司に命せて帝宅(みやこ)を経り始む。庚申の年の秋八月十六日に天皇正妃を立てむとす。改めて広くよきやからを求めたまう。時に人有りて奏して日さく『事代主の神、三島溝咋(みしまみぞくい)の女、玉櫛媛に共(みあい)して生める児を名づけて媛踏踏(ひめたた)ら
五十鈴媛(いすずひめ)の命と日す。是、国(か)色(お)秀れたる者なり』とまうす。天皇悦びたまふ」


 
平易の言葉で表せば、やっと戦いが終わって国が手に入った。次は嫁探しだと云うことになる。「九月に二十四日、媛踏踏ら五十鈴媛を納れて正妃としたまう」とある。
 この記述に関して一方の古事記には国の正史としてはどうかと思われるような話が堂々と載っている。神武天皇は九州加世田市周辺にいた時、豪族小椅の君の妹、阿比良比売との間に二人の子供がいた。多芸志美命と岐須美美命である。東征の際、妻を現地に留めたまま大和に来て、太后にする美人が欲しいと云つたのである。時に人有りての人とは大久米命で、その申し上げることは、

「ここに媛女あり、こを神の御子といふ、その神の御子といふ由、三島溝咋(みぞくい)の女、名は伊夜陀多良比売、その容姿麗しければ、美和の大物主の神見感(みめ)でて、その美人(おとめ)の大(くそ)便(たる)る時に、丹塗矢に化りて、その大便る溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。しかしてその美人驚きて、立ち走りいすすき。すなわちその矢を持ち来て、床の辺に置けば、たちまちに麗しき壮夫に成りぬ。その美人を娶りて生みたまえる子、名は富登多多良伊須須岐(ほとったらいすき)比売の命といい、亦の名は比売多多良伊須須気余理比売といふ。かれここをもちて神の御子といふ」。

大物主の神とは出雲系の神の当主で普通は事代主命を指す。書紀には皇后は事代主の子と記されているので、この大物主とは事代主本人のこととなる。

 人皇二代の綏靖((すいぜい)天皇は神武天皇の第三皇子である。選んだ皇后は五十鈴依媛で先帝神武の皇后媛踏踏ら五十鈴姫の妹である。三代安寧天皇の皇后渟(ぬな)底仲媛(そこつなかひめ)命で鴨王の女、即ち事代主の孫である。四代懿徳(いとく)天皇の皇后は天豊津媛で息名耳命の女で天皇とは姪となり依然として出雲系の血が深く続く。五代孝昭天皇はどうか。皇后は世襲足媛といふ尾張連(むらじ)の妹でやっと出雲系から抜け出ている。
 六代考安天皇の皇后は姥押媛で孝安天皇の兄の子で近親結婚である。七代孝霊天皇の皇后は磯城県主大目の女細媛命で、出雲系とは完全に離れた生い立ちである。何故歴代皇后の家系にこだわるか。その理由の一つは神武以来の外戚としての出雲権力の地盤の低下を追っていくことである。

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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9

 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
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