おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(6)
 
 関東を中心として太古の有為転変をのべてきた。経時的に文を進めれば本文の題名に決めた木花咲哉姫の登場の順に到達したことになるが、文の流れとして富士浅間神社の創生の紆余曲折(うよきょくせつ)を述べたのち、喜怒哀楽の姫の真実一路に文行を移すのがより印象が深いと考え文脈を進めよう。
 新、日本神社100選によれば富士大神宮が第八代考霊天皇の御宇既に存在し、當時列島一番の神社であった。素戔鳴命の後裔尾張張田彦命が大宮司に任ぜられていた。記によれば第15代応神天皇、此の天皇は全国の八幡神社の祭神として知らない日本人はいないが、男女合わせて20王の御子がいたと記録されている。一方の紀に拠れば王子の数はさらに多く、男王11、女王15の計26の御子がいた。その多くは畿外に出ているが、そのうちの三皇子、大山守皇子、隼(はやぶ)総(さ)別(わけ)皇子(おうじ)、根島皇子は天都といわれていたこの富士大神宮に派遣されて、大神宮家に寄寓されていた。當時の大宮司は八代目の左太夫命はその職を来山中の大山守皇子に禅譲され、自らは副宮司となった。兄と共にいた隼総別皇子は分社の山宮富士神社の宮司となり代々そのあとを継いでいた。延暦19年の大噴火で富士大神宮は焼失、埋没した。別宮の宮司は隼総別皇子から25世の福地元宮麿であった。分社も同じ難に陥ちいるのを避けるため、遠く、今の甲府に近い八代郡に社殿を建て、神祖・皇祖を祭司した。これが今甲斐の国の一の宮と知られている富士山北本宮浅間神社で、大噴火発生の當時は風の谷間に当たる処に宮があり何度も社殿を建てるが直ぐに倒壊し、以来社殿がない聖域を神境としていた。ふって湧いた大噴火を良い区切りとして、甲府に近い八代郡に社殿を移した・・・のでないか。そんな無責任な推理がスーと頭によぎる。しかし記録には何もない。私の単なる過思考の推理であろう。隼総別皇子の弟であった根島皇子の後裔大宮麿は更に福地郡(富士郡の旧名)上野が原に社殿を建立し大神宮の分霊を祭司した。これが今の富士(ふじ)本宮(ほんぐう)浅間(せんげん)神社(じんじゃ)である。本社富士大神宮は富士北麓にあった。記録では富士北麓の溶岩による被害が一番深刻であったようだ。社殿は倒壊し、埋没した。しかし富士大神宮山周辺は有史以来の聖域である。大神宮は仮殿をたてたが、また地震・噴火で倒壊した。その後富士山は14回もの噴火を繰り返すとは當時者の大宮司としては予測もつかず、大神宮を守る使命感が大局を見る目を曇らせたのでないか。山麓を離れ麓の三島あたりに遷宮をする。これもひとつの選択手段であったのでは・・・現在此の地には伊豆の国の一宮の三島大社がある。鎌倉時代から信仰が盛り上がり、東海道筋に面していたため参詣者で社域周辺は盛況を極めていたと、どの記録も述べている。延暦の大噴火を契機として、富士大神宮は三つの本宮に分かれてしまった。東本宮、元の富士大神宮である。寒川神社とも云われていたらしい。北本宮、神部山浅間神社。表本宮、浅間神社。三社とも格式が高い延喜式内社である。勅使が機内から祭礼には毎年下向するのがきまりであった。しかし度重なる噴火により道路、河川交通は破壊され、勅使は表本宮に参詣するだけで引き返す事態が間々あり、これが富士宮の表本宮だけが隆盛を極める結果となった。此の度の此の文の作成に際し全国神社名鑑を再度調べてみた。全国12万の神社を載せる大鑑である。祠などの三尺宮も記載から漏れていない。祠の如き小社であっても存在していれば必ず名鑑に載っている筈である。しかし東本宮の登録はなく其れを思わせる名もなく、寒川神社の名もなかった。≪神奈川の寒川神社とは異なる≫。神社本庁に登録していないか、それとも他の理由か。寒川神社の宮司は富士大神宮の嫡流として大山守皇子を初代として明治の初期まで七十七代の氏名が明らかになっていると新 日本神社100選の著者は述べている。その後が知りたいものである。
 富士大神宮が三島など大太平洋岸に移っていれば、尚隆盛を保ち、今の富士宮の本宮浅間神社も三島大社も今とは別の姿であったと思う。人間にも動物にも、植物にも生きていく上で栄枯盛衰は付き物である。神様にしても其れを供奉する神職にしても例外でないとフーと思う。




 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9