おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(11)
 
 瓊瓊杵尊は近畿・中部地方を巡幸し諏訪を経て新治に入るが、巡幸の途中酒折の宮に立ち寄った。酒折宮は若仁天照大神の誕生地ともいわれ、前述した即位の大祭が営なまれた宮ともいわれている。宮の留守居役大山祗命が歓待の宴を催された。その夜、大山祗命の御女子葦津姫が君に召され、契りを結ばれた。新治に入った尊には仕事が山積するが、考える所があり、天児屋根命を新治に留め、伊勢に向かって再び海辺を行幸される事になりお触れを出した。大山祗命は今の三島に仮屋を建てて尊を迎え、饗応し、宴会の食事の合間をはかり、娘の葦津姫が御子を妊娠したと報告した。忍穂耳尊の御子の皇子は二人とも未だお子に恵まれず、懐妊の知らせは世継ぎの御子の誕生の希望を持たせ皇統安泰のため待望久しい吉報であった。伊勢の天照君に早速報告しようと尊は出立の支度を整えている時に、葦津姫の母が姉の磐長姫を伴って尊の仮宮にきて、母親は『前回は次女の葦津姫を召されましたが、私には姉の磐長姫を愛おしく思っております、どうぞ姉もお召くださいませ』と申します。母の熱心さに心を動かされ、又、未だ若い尊は磐長姫を召すと、妹とは違い、体付きがごつごつとし、話し方にも振る舞いにも女の潤いがなく、顔もしこめで驚いた尊は姫を敬遠、昂揚した心も消え失せて、それ以上同席を中断した。それを聞いた大山祗命は烈火の如く怒り、妻を叱りつけ「あれほど磐長を連れ出すなと申したものを、出過ぎた事をしおって、父の気持も察せず大君である尊に対しても大変礼節を欠くことが分からなかったか。此の短慮者めが、磐長を連れて早々に立ち去れ」と二人を仮宮から追い出したのである。同じ親であっても男と女は違うのであろうか。生まれ来る御子の後ろ盾となり一門の栄達を第一と考える父、事の大局をつかめず、母情が全てで、先のことは真っ暗の母、若しこれを現代に置き換え、身近な事として見聞きをしたと仮定すれば、私ならずともいずれを責めるべきか判断に迷う筈だ。母の才たらずか、父のエゴか。母と娘はこの仕打ちをひどく悲しみ、骨の髄にも達する恨みを感じたのは理解できる。両人は復讐にはしる。尊に仕えている女官を抱き込み有る策略を授けたのである。尊と葦津姫一行が旅を続け伊勢に近いシロコの宿(三重県鈴鹿市白子)に宿泊した夜、機会を狙っていたその女官が瓊瓊杵尊に「葦津姫が身籠ったのは他の男が居るからです」と告げ口をする。一夜の契りで妊娠したことから尊は葦津姫を強く疑い、葦津姫を置き去りにして真夜中に伊勢に向け出立してしまう。翌朝一人置き去りにされた姫は大変に驚き、たつた一人で行列を追い松坂まで辿りつく。しかしそこには尊の共の者が待ち構えていて、「これ以上付いてきてはならぬ」と足止めをしてしまう。身重の体で一体どうしたら良いか、奈落の底に突き落とされ悲嘆にくれる姫、若しこれが自身に降りかかったとすれば、どうする。男であれ女であれ、何人も姫の気持を察するに余りある。仕方なく白子の宿に戻った姫は宿の庭に桜の木を植え、「此の様な仕打ちを受けるのは誰かの妬みに相違ない、桜よどうかこの生き恥をそそいでおくれ」と木に生きている人間のように話しかける。姫の祖父は有名な桜内の神であった。桜の木を大内に植え、花の咲き具合で妹(いも)と背(せお)、男女の道の正しさを占ったと云う故事の神様なのだ。イモ・オセの前後の頭をとつて伊勢と云ったとの説がある。
「桜ょ心あれば聴いておくれ、わたしのお腹の子がアダ種ならばし萎め、マサ種ならば子を産む時に咲いておくれ」



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その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9