おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(4)
 
 お子が多く長兄が八十(やそ)杵(きねの)尊(みこと)、次が伊佐子姫、神狭(かんさ)日(びの)命(みこと)、兵(つわもの)主命(ぬしのみこと)(中臣氏の遠祖)その他を数えるが、二番目に挙げた伊佐子姫(伊奘再尊)に分家筋の沫蕩尊の長男(伊奘諾尊)を娘婿に選び、この二人を立てて自身は後見として際立った部族間の摩擦を避けたのである。伊奘再尊・伊奘諾尊で混同するが女神がイザナミノミコト、男神がイザナキノミコトである。お二人の初めての宮は筑波山の山腹にあった。筑波山は信仰の山として知られている。人気が少ない寒い山腹に何故宮を築くのか。この素朴な不信感が秀真伝そのものの不信感でもあろう。筑波山は三方の山が屏風の様に立ち盆地の出口は南を向いている。時は弥生時代、農耕が定住化して稲作の普及の是非が将来の国の柱となりつつあった。当時の稲作は湧水が豊富な山の傾斜地を小さく区切った棚田が主であった。三方の山で寒い北風を防ぎ盆地内は絶好の農耕地であった筈だ。冬季、早春の天気予報で良く聞くが、放射冷却の冷害の予報、昼間の暖気は夜・朝方どこまでも上昇して天に逃げるのでなく、二・三百米の高さで停滞するそうだ。宮はこの高さあったのでないか。筑波の冬は暖かい、布団一枚軽くて良い。昔からこの地ではそう言われているそうだ。この地でお二人は長女和歌姫を生む。世継ぎの御子が定まらないと国が滅ぶ。この不安は豊受大神の高皇産霊系共通のものであったと思う。しかし次は男子の御子をの願いは空しく、次の御子は『ひよるこ』、つまり流産であった。新しい国の体制作りはのんびりしてはいられない。伊諾尊は弁舌が巧みで前にも述べたが農耕土木一般に知識の豊かな人物であったようである。土地は肥沃だが湿地で葦・水草が多くて稲作ができない。そのようなところが至る所にあるはずだ。そこを探して稲作の普及をはかる。私の考えであるが、これは豊受大神の意思でもあり、開拓のために必要な財貨と武器、従う武人と土木技術の一隊をお二人に授けたと考える。古事記・日本書紀には「ふたりは初めに天の浮橋の上に立って鉾をさかさまに垂らして下に何が有るかかき回してみた」と述べている。これは何の支えがない危険な場所で家来たちを使わして稲田開拓の協力者を探したことを意味すると考え、その最初の協力者は記・紀が述べるオノコロジマの住民であったと思う。この島の現在の名前を知るべくもないが、多分潮の満ち引きが大きい瀬戸内海の島であろう。この最初の島を拠点とし次に淡路島に拠点を移し、更に他の島へと活動を続けたと考える。記・紀には「若い二人は次々と子供を産んだ。初めに淡路島、次が伊予二子島、次が筑紫州、壱岐三つ子島、佐渡州、越州、吉備津州と合わせて大八州国となった」と述べている。これは次次と協力を願い出るコロニーが増え日高見優位の連帯関係を成立させていった経過暗に述べていると思う。お二人は水田の開発、山の管理、道路の整備さらには牛馬を利用した農業などを啓蒙し、その多くの住民の信頼をえてそれらの盟主として擁立されたことを意味していると考える。豊受大神が日高見に移動し自ら東の君と称して以来二つの国が盟主として競い合う体制は次第に均衡が崩れ、お二人の新しい連盟国は益々力を蓄え、やがて面足尊より伊奘諾・伊奘再尊に瓊と天の逆鉾を持って近江・葦原の国を治めるよう勅命が下る。これは面足尊が自ら国の首座を降り若いお二人に位を、今で云う禅譲したことを意味すると考える。面足尊・恨根尊に後継の御子がいないことが多くの歴史が教えるごとく降位の原因となったのである。
 新しい国の第一の目的には達した。しかし男子の御子をの願望は、高皇産霊の流れを汲む一族の全ての願いであったと感じる。お二人は世継ぎの御子の誕生に備え、宮を今の富士山麓に定めた。富士山は全ての日本人の信仰の山といって過言でないと思うが、超古代史を架空のものと考え、秀真伝を真赤な偽本と決めつける人々には、又、信仰の山を持ち出して、その記述を権威付ける意図ととられるであろう。しかし当時は信仰の山ではなく、富士・又は不二山の名前でもなく、原見山と言いていた。そこで待望の男子の御子が誕生する。これに関しては前の拙著で詳しく述べているので、ここではそれを避けるが、生まれた御子は諱名を贈られ若仁と云い、体から後光が差すような大変麗しい御子で、両親の喜びは又一入であったと秀真伝は述べている。「この様な御子を授かったうえは粗略には出来ない」と日高見にいる父君の豊受大神の元に送り、立派な統治者となるよう教育を願いでる。古事記・日本書紀はこのことについて、このように麗しい子は多忙で十分な教育が出来ない私たちと住むのでなく、天に送って天上のことに慣れさせるが良いと決め、長い梯子を使って天に送った。その當時は天と地は今程に遠く離れていなかった、と記している。



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その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9 その10
その11 その12 その13 その14 その15 その16

 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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