おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(5)
 
 秀真伝の記述で追っていて驚く程の以外な出来ごと次に続いている。生まれて間のないこの御子を即位の大礼を経て世継ぎに定めたと思われる記述だ。『布もて作る 八豊旗 八隅に立てて 君と世世に立つ、天皇(つめらみこと)の、はじめなりけり、あな賢あな」と逸文がその外典に記されていることだ。此の時以来、世世白旗を八隅に立てる践祚の習わしが定まったと考えたい。白幡の記録が出てくるのでそれについて私見を披露したい。後世になり天皇家皇統より、後の武家の祖となる桓武平氏、清和源氏が分流する。平氏は赤旗を家のしるしとし、源氏は白旗を掲げた、時代から見れば桓武天皇が先帝である為平氏優位の筈である。しかし平氏には天皇の代理として幕府を開く権威は与えられなかった。鎌倉幕府、室町幕府、江戸幕府いずれも源氏出生である。鎌倉幕府の場合、実朝が死亡し源氏の後継が断たれた時、後見の北条氏は平氏の故に京都は幕府の委任をおこなわず、代々朝廷から源氏血筋の者が将軍に選出された。秀吉は関白職に留まり、信長も幕府を開かなかつた。事実の有無は知らないが、徳川氏は朝廷に根回しして源氏と偽って江戸開府を願い、これが認められて幕府を開いたと云われている。弥生時代の超古代、幼い若仁君に践祚の大礼、即ち天照大神の登場、大礼の場を囲む白旗、その事実が後世に不動の習わしとなり、白幡を掲げる源氏が開府の資権を授かった。単に私の推考に過ぎないが。他に有力の出典があれば知りたいところである。

刊行されている百科事典の記述を知識の基として、現在の富士山周辺の地層・植物相を参考として當時の原見山の大観を文として纏めてみたい。古代には不尽・不二・富滋などと記録され、三七七六米の標高であるが、実は富士山自体は古い二火山の上に積み重なった、1500米ほどの山で、誕生から一万年程の若い活火山である。約2500―2000万年の間の海底火山噴出物の層の上に数十万年前に小御岳火山が噴出した。次に古富士火山が数万年まえから二万年・一万年前まで盛んに噴火を繰り返し関東周辺、とくに南関東に赤土の関東ローム層を堆積させた。しかしこの両火山は完全に死滅し富士山は長い間死火山であつた。この山の上に七八一年(天応一年)の噴火を初めに、八○○年(延暦一九)、八六四年(貞観六)、一七○七年(宝永四)の前例のない三代大噴火のほか都合十四回の大噴火を記録している。富士山は溶岩流失を主とする沖積世に本体が形成され(10000から8000−7000年前)、その後活動が衰微となるが6000−5000年前から再び活動が始まり、大噴火を繰り返すことにより現在の均整がとれた高山が出来上がったのである。やや記述が複雑で難解であると思う。上記を平易に換言すれば、死滅した両火山の下に一万年前よりマグマが溜まり始め、一旦は治まっていたが、6000年程前からまた溜まり始め、死滅した旧火山を突きぬけて溶岩が吹き出し、噴火の度に溶岩が重なって現在の如く高峻な山となったのである。三大噴火のうち延暦の大噴火は山頂や山腹の数か所で発生し、爆発活動と溶岩流出で東海道の足柄道も塞がれ、新しい箱根道が開かる原因になった。次の貞観の大噴火は一番規模が大きく、青木が原・剣丸尾などの大溶岩流で北麓に西湖と精進湖が出現し現在の富士五湖になった。富士山地理学のほんの概要である。これを素地に私が描く若仁君が生まれ、宮が有った當時の原見山周辺の光景を述べてみよう。
 2−1万年前に富士山の土台の旧二火山は死火山となり781(天応元年)の再噴火まで、このなだらかの一帯は文字道理の先住の縄文人のすむ高天原であった。南から海風、降雨量もおおく、高地であることは縄文中期の超温暖の気候でも湿気がすくなく、過ごし易かった筈である。一万年以上の四季の変化による土壌の風化は、ミネラルが多い溶岩地層を肥沃の土壌に変え、樹木の鬱蒼とした豊かな森林が一帯を覆っていて、狩猟にも日々希望を待たせる地域であったと推測する。山の山腹は湧水が豊富で、弥生早期、湧水が主役であった棚田の稲作には絶好の地理条件であった。宮は北麓にったと記されている。やや高処に登れば360度に近いパノラマが原見山の名の如く眼下に展開し、心のどかな日々の経過が続いていたと思いたい。現在の富士山を育む豊富な降水量は天応以来の山積した溶岩地層に留まらず、長い年月をかけ、この原見山時代の保水層まで下降浸透しているそうだ。白糸の滝、曽我兄弟伝説の音止の滝は巨大なこの湧水である。天照大神若仁はこの原見山の宮で生まれ、その後秀真伝の記述の如く東北日高見で祖父豊受大神の大君としての教育を受けたのであろう。空となった宮の留守居役は大山祗命と秀真伝は伝えている。
 秀真伝の記述をみると、當時既に治水・農耕には経験と科学的観察眼で実行に移していたように感じられる。川を上り水源を確かめ、山の稜線から分水嶺を区分し、地域の改良・発展に資していた。足元の原見山の地盤が死火山であることも當時の人は知っていたかもしれない。しかしその奥の奥、地殻の底に既にマグマの集積があり、世紀を経て巨大噴火を繰り返す運命である事は知る由もなかったと思う。南に海を配し、海風は豊富な雨をもたらし。この国の将来にとり大切な資源を育む地域として山の管理には怠りがなかったと考える。



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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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