おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について(10)
 
 余談であるが後世の大和統制に最後まで頑固に抵抗した長弥彦は、この大玉命の直か側かは不明だが後裔であつた。完訳秀真伝の神々の系図はその様に記している。太玉命の忌部氏が次第に中央での影響力を失い、同じ重臣であった天児屋根命の中臣氏との格差の開きに抗議し、古語拾遺の一巻の上奏した一件の背景に、総祖であるこの太玉命の失敗とも云える古傷が遠因ではないか、私が考えるこの推理も成り立つのでないか。大神からの指示も仰がず、自身から職を去り当面手空きとなった大物主に、処罰でなく、天照君は日頃より考えていた列島中央地部にある未開拓の良い候補地の調べと、中心となる新治の宮の新しい建設を命じたのである。その地は茨城県下館市の周辺(現在の筑西市)である。日本書紀の日本健尊の東征や風土記には『にいはりのさと』としてよく統治整備された条里が記録されている。この新治に里は既に瓊瓊杵尊が長年稲作を試みていた、當時の稲田は山の傾斜を区切り湧水を田にひく工法であったが渇水や台風に拠る被害が多く収穫は伸びず、開発計画は行き詰まり苦悩が続いていた。尊は雨風に強くより豊かな収穫が望める稲作のため各地を巡りより多くの知識の基としたく、その許可を大神に願い出ていたが許しがでず伊雑に留まっていたのある。
 新治の宮が多くの障害を乗り越えて完成に近付くと、天照大神は御織の留め、八咫鏡、天叢雲剣を瓊瓊杵尊、と左右の臣として子守命(三代目大物主、事代主の子で子供が多いためこの様に云われた)・天児屋根命に授け、広く国土の開発役を公に任命した。先に忍穂耳尊は十種の神宝を日乃明に授けている。秀真伝の記述のみでは相互の合意確認済みか不明だが、国の主権の委譲とも思える神器を瓊瓊杵尊にも与えている。国の分裂にも思えるが、私には不明である。後年の神武天皇の大和進攻、最後まで抵抗したのは飛鳥君と言われた日乃明尊の後裔と関係が深い前述した長髓彦であった。長髓彦には我こそ真の皇統であると大義名分が有ったのである。天照は後年の内乱の因を作った。裏を探ればその様に思えないこともない。  





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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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