おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
  第二章          葛城氏の滅亡と蘇我氏の栄光
我が家は蒲田の町工場であった。昭和二十年焼夷弾の雨により、一帯は壊滅、体一で千葉の四街道と成田の中間地点に位置する志津という処に疎開した事がある。財産を皆無にし、唯一つ残った志津の山林を食料確保のため約1200坪を開墾した。その中心は17才の私であった。私が使う鍬はトウグワ(多分唐鍬)一丁である。未だ少年期で小柄な私が如何に掘っても二十センチ程しか鍬が入らない。太い松の根に刃先がまともに当たると跳ね返されて、手頸を挫きかねない。開墾は遅々として進まなかった。その土地は佐倉藩士が明治の廃藩置県の際に、殿様から所謂退職金替わりに拝領した土地で、代替わりを繰り返し当時我が家の所有になっていた。又、軍の飛行場建設のため八街から移住させられた農家もあり、二町歩(約6000坪)が開墾され、見事な畑が広がっていた。その農家にU字型の鍬が有ったのだ。
その鍬の威力を一度見たことがある。力も違うが振りおろすと五十センチ程土がいとも簡単に切り崩される。五センチもある木の根ッ子が大根でも切る様に一緒に飛び散るのだ。その鍬はその農家にとっても大切なものであったと思う。素人の私には使いこなせないと思ったのであろう、貸してやろうとも云わなかったし、自分から申し出ることなど、もっての外の事だった。トンビ鍬といっていた。ホテルのテーブルのバター皿に先が広い匙がついて来るが、その形によく似ている。遠い昔の事であるが大きさは普通の鍬の倍近くあり、鍬の内側が銀光していたのを忘れない。志津はその当時村であったが2-3年して佐倉市に合併された。10年程志津にいたが両親の死去と共に今の多摩地区に居を移した。その間、現地の農家の人たちには大変に世話になった。年のせいか当時の事を間々思い出す。
話が本筋から離れてしまった。葛城氏は大豪族であったが軍事的にでなく、経済面・政治面にである。これは高皇産霊皇統の人には決して喜ばしい事ではない。まして若い不遇な皇子達には鬱憤の晴らし処であった。よく時代劇に出てくる旗本の二男・三男の御家人ならず者集団を連想する。二十代安康天皇や二十一代雄略天皇、その名を挙げるのに勇気がいるが、その類でなかったか、そんな推理が時々頭をかすめる。安康天皇は穴穂天皇とも云う。第三子であり皇太子となって次の天皇になるには遠い血筋であった。允恭二十三年三月、天皇は第一皇子木梨軽皇子を立てて皇太子とした。軽皇子は容姿佳麗で皇子を見る人は皆目を見張り、自ら褒めずにいられない程であった。実の妹軽大娘皇女も又艶妙であった。軽皇子は実の妹に恋心を抱き、罪となる抱きしめたい気持ちを抑えていた。しかし恋する心は強まる一方で、狂い死にするほど無為の日々が続き、我慢が尽き果て、遂に軽皇女と密通する間柄となってしまう。二十四年六月、御膳の汁が夏の暑さにかかわらず煮凍ったのを天皇が不思議の思い、占い師を呼んだ。占い師が云うには「家中に乱があります。多分近親相姦でしょうか」と答える。天皇は近従に問いただすと『木梨太子、同母妹軽大娘皇女を姧(たわ)けたまへり』と申す、と日本書紀に記されている。さらにいろいろの情報で此の事が事実と判明する。しかし軽皇子は皇太子であり罰することは出来ない。軽大娘皇女が伊予に移される事となった。軽皇子は大変悲しみ、必ず直ぐ帰ってこられる、皇女を忘れはしない。必ず行く。待っていてくれ、の意味の和歌を送ったと矢張り日本書紀は伝えている。允恭天皇は四十二年年一月に皇女は逝去する。軽皇子の軽皇女との淫行は広く大民(おおたみ)の間に知れ渡り、群臣は軽皇子を見捨て穴穂皇子についてしまう。噂を広く触れ回ったのは穴穂皇子であったかもしれぬ。しかし依然として軽皇子は皇太子で、つまり世継ぎの御子であった。穴穂皇子は軽皇子を襲わんとして軍兵を集め、世間に憚る事もなく更に兵を増強した。軽皇子には群臣はつかず大民も味方しない。軽皇子は逃れ物部大前宿禰の家に保護を求めて隠れてしまう。穴穂皇子は直に物部の屋敷を囲む。大前宿禰は門の外にでて穴穂皇子に「軽皇子を殺さないでください。私は皇子を然るべく説得しましょう」と答える。木梨軽皇子は大前宿禰の屋敷で自害して果てる。この年の十二月十四日、穴穂皇子は即位し安康天皇となった。類は類を呼ぶと云う例えがある。安康天皇と大泊瀬皇子は馬が合い、大の友であった。大泊瀬皇子は反生天皇の皇女たち香火姫皇女・円皇女・財皇女を妻にしたいと申し出る。皇女たちは、「とんでもない、あの皇子は気が荒く残虐の事を平気でする人ですよ。怒りだしたら自制がきかず、朝会った人は夕方には殺される。夕方会った人は次の朝にころされる。私達は左程美形でもなく、才媛でもありありません。気も利かないので、言葉の端はしの振る舞いが気に入らないと、どんな仕打ちをされるか判りません。お断りします」、と逃げ出して何処かに行ってしまう。翌年の二月、安康天皇は大泊瀬皇子のために口をきいて、仁徳天皇の皇子大草香皇子の妹幡梭(はたび)皇女(のひめみこ)を大泊瀬皇子の妻にくれないか、と坂本臣の祖(お)根使(やおね)主(のおみ)を立てて大草香皇子を訪ねさせる。大草香皇子は使いの坂本臣に対し、「私は病弱でもう長い事はないでしょう。船に一杯荷を積んで潮を待つ如く何にも出来ません。私の命には何の未練もありません。たた私が死んだら妹の幡梭姫がたった一人になってします。それが何とも心残りです。今、妹を選んで宮廷につかえる女として扱ってくださるお心をお聴きして、何で私共に異存が有りましょうや。私からのお礼の証として、宝物としている押木珠蔓を献上し、お使いの人に渡します。特別に高価の物ではありませんが、お納め下さいますよう」と答える。使いの祖根使王は押木珠蔓が余りにも美しいので。自分の宝物としたいと考え、天皇に偽った報告をする。「大草香皇子は申し出を断り私にこの様に申しました『同じ皇族だと言っても、私の妹を妻としたいなど、一体何を考えているのだ』と」。そして受け取った押木珠蔓を自分の物として仕舞い込み天皇に差し出さなかったのである。天皇は祖根使王の嘘を信じ、怒り心頭、大軍を起こして大草香皇子の館を囲み、殺してしまう。大草香皇子の家臣に浪速吉師日蚊父子がいた。皇子が何の罪もなく殺された事を悲しみ、父は皇子の首を抱き、二人の子たちは各々足にとりつき、「吾ら親子三人皇子存命の時共に仕え、死後の時に仕え殉じなば家臣に非ず」と、自ら首を撥ね皇子の傍らで倒れ死んでいく。寄手の兵士でこれを見て涙して悲しまぬ者はいなかったと記録されている。
安康天皇は大草香皇子の妻中帯姫を自分の物として宮中に召しいれる。又、幡梭皇女を召して大泊瀬皇子の妃としてしまう。安康天皇は翌年の一月十七日、召しいれた中帯姫を大変寵愛し皇后にすると明言する。中帯姫には殺された大草香皇子との間に眉輪王という男子がいた。「何卒眉輪の命をお助けください」と姫の懇願に拠り宮中で一緒に暮らすこととなった。安康天皇三年八月、天皇は沐浴のため山宮に行幸し、高殿に登って風景を愛で、宴会を開き可成酒を飲んだ。久しぶりの山宮で気も緩み皇后の膝枕で心の内を開いて話しかけた。「姫よ、お前は優しくて本当に愛しく思っている。しかし、あの眉輪王の目は何だ、鋭く吾を睨む。誰かがいろいろと吹き込んでいるのでないか。眉輪王は恐ろしい」その時、眉輪王は未だ7歳の子供で高殿の下の隙間で遊んでいて二人の話を全部聴いてしまつたのだ。膝枕の天皇は沐浴・酒の疲れで心地よい熟睡に入る。眉輪王はその熟睡の期を窺い天皇を刺し殺す。前代未問の変事を知った大舎人は仰天し気も顛倒、走って大泊瀬皇子に注進する。大泊瀬皇子は大変驚き、安康天皇の兄たちが眉輪王を操って天皇を殺させたと疑い、鎧兜に身を固め軍を率いて充侠(にんきょう)天皇(てんのう)の第四子八釣白彦皇子を捕へ尋問する。日頃の性格を良く知る八釣皇子は潔白を申し立てても無駄と知り、口を閉ざして答えない、大泊瀬皇子はこれに狂気の如く怒り皇子を切り殺してしまう。更に第二子の坂合黒彦皇子を捕らえ尋問する。言葉尻を捕えられ殺されることを恐れ同じく口を閉ざして一切答えない。大泊瀬は益々怒り自分でも分別が付かない程である。又、眉輪にもこの際殺してしまう心算で、凶行の理由を訊くと、「やつがれは元より天位など望んでいない、唯、父の仇を討っただけだ」と答える。坂合黒彦皇子はここにいては殺されると眉輪王と示し合せ隙を見て脱失し葛城氏の円(つぶらの)大臣(おおおみ)の屋敷に逃げ込む。大泊瀬皇子は使いを使わして逃げ込んだ二名を門外に出すように依頼する。円大臣の返事はこうだ、「よく聴くことだが、人民が変事があると宮廷に駈けこんで助けを求める。君が変事で民の家に駆け込み助けを求めるなど聞いたことが無い。いま坂合黒彦皇子と眉輪王が私に救いを求めている。なんで、この二名を追い出す事が出来ましょうや」大泊瀬は軍兵を増やし大臣の館を囲む。大臣は庭に出て軍装を整える。大臣の妻は突然に襲そわれた夫の悲運を目前にして悲しく、心も乱だれて歌をおくる。【おみのこは たえのはかまをななへをし にわにたたして あよいなだすも】わが夫、大臣は白い?の袴を七重にお召になり,庭に立つて脚帯を撫であられる。大臣は此の時既に御高齢であったようだ。己の運命を悟り義による死をも覚悟しておられたのであろう。
安康天皇の突然の死で未だ日嗣の御子は決まっていない。大泊瀬は血筋からは次の天皇に程遠い存在であった。人望がある葛城氏と血縁がある市辺押磐皇子が有力であった。突然に到来した皇位への又とない好機である。大泊瀬はわざと隙を見せ二人を逃がしたのでないか。そんな推理も可能である。天皇を殺した大罪人を懲罰する。この大義名分によりなんでも出来た。二人が円大臣の館に逃げ込んだと聞き、大泊瀬は シメタ と心中思ったのでないか。眉輪王は別として逃げる坂合黒彦皇子の思慮不足であろうか、しかし、それを言うのは酷であろう。
「ご命令に服す事は出来ません。昔からの例えで窮鳥懐に入れば猟師もこれを殺さず と言います。まさに私が其れに当たります。どんな人間でも、私を頼って来た者を見殺しぬは出来ません。伏してお願いします。わたしの女韓姫と葛城領の七区をお渡しします。これで両名の罪を免じくださるよう」大泊瀬は許さず、館に火を付ける。大臣と眉輪王・坂合黒彦皇子は焼殺される。阿鼻叫喚の中、舎人の坂合部連贅宿禰は皇子の屍を抱いて共に死んだと記録されている。政敵と狙う残る一人、市辺押磐皇子も偽りの狩に誘い出され、後ろから矢で射られて死んでしまう。残虐はおわった。天皇の誕生である。大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけすめらみこと) 有名な、雄略天皇である。

葛城氏が雄略天皇により滅ぼされたことは蘇我氏のその後を大きく変えた。隣の大豪族が重い壁となり、外への発展に蓋をされ、痩せた土地で不遇を託っていた蘇我氏にとり突然の転機が訪れたのだ。以後年の経過とともにじりじりと葛城領を浸食する。互いに交易することは各豪族の生きていく酸素であった。交易を封じられていた瀬戸内海への道が開き蘇我氏は見違える様に発展を続け、誰もが堂黙して頷く大豪族となったのである。


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その10 その11 その12

 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
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