おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
  第一章      大乗佛教に殉教した山背大兄王一族の死
 判官贔屓と云う言葉がある。この庶民の感情はどの国の人にも共通するものであろう。しかし総体的に自惚れの強い日本人は己の地位・権限の保持に関心が深いのでないかと私は思っている。これは陽の気質である。陽は常に陰に揺れ動く。陽が強ければ陰への揺れも強い。劣等感・挫折感である。判官贔屓も陰の気質の一端の表れと私は考えたい。この感情は栄枯盛衰の歴史の中で、清く美しく散った一族の結末をより深く賛美する。判官贔屓の語源の源義経は勿論、豊臣氏の大阪夏の陣、武田勝頼の天目山での最後、恵林寺の楼門で「心頭滅却すれば火も又自ずから涼し」の名言と共に死んだ快川上人等、哀惜の情が心地よい響きに転換し、未だに我我の心を揺さぶっている。しかし、同じく美しき最後を遂げた一門で一般に知られていない有名な日本史上の悲話がある。日本書紀に最大級の賛辞でその業績を称えられ、戦時中は軍部が国威宣揚に大い利用した『日出処天子 致書日没処天子 無恙 云々』の国書を隋の送った聖徳太子の直裔山背大兄王の一族である。
 皇極二年(643)聖徳太子の死後十四年、その子山背大兄王(やましろおうえのおう)を初め大兄王の王子や王女、その孫君に至るまで全ての一族が斑鳩寺(今の法隆寺東院)の堂塔に籠り自害して果てたのである。その数二十数名、大兄には三人の妃があり、その王子・王女、孫君らであった。日本書紀にはこの顛末が詳しく記録されている。記録は漢文であるが、漢字交じりの下し読みでも可成難解である。以下私の拙い解説を交えてその経過を述べていきたい。皇極二年十月十二日、蘇我臣入鹿は独断で舒明天皇の皇子古人大兄を皇太子(世継ぎの御子)にすると決め、一番有力視されていた山背大兄を候補から外したのである。入鹿は山背大兄が大民(おおたみ)にも、多くの皇族たちにも人望があるのを忌み、権勢を誇る蘇我氏にやがて悪影響があると用心した為と言われている。ついで十一月一日、入鹿は巨勢徳太臣、土師娑婆連に命じて山背大兄王の斑鳩の居殿を襲撃した。奴三成と言う家臣がいた。数十人の舎人と一緒に外に打って出て勇猛に戦った。そのため寄手の一方の大将土師娑婆連は矢に当たり戦死をしてしまう。寄手はその勢いに恐れ後方に退却する。山背大兄はこの間に多くの馬の骨を集め内殿に投げ捨て、妃・王子、王女その他一党を引き連れ、敵が後に退いた間に生駒山に逃げ、身を隠したのである。巨勢徳太臣らは再び陣を立て直し斑鳩寺を囲み火を放つ。灰の中の多量の骨を見つけ、王たちは焼け死んだと思い込み、囲みを説いて引き揚げてしまう。山背大兄一族はこれにより四・五日生駒山に留まる事は出来たがそれは又、飢餓との戦いであったのだ。三輪文屋君は従う家臣王たちを代表し、「このままでは皆飢えて自滅の他有りません、進んで戦いを挑みましょう。紀伊の深草の屯倉に移る事を進言します。そこから馬に乗りお味方が多い東国に行き、領地の乳部の部隊を軍の中核として反抗の戦をしかけます。されば我らは勝ちます。必ず勝ちます。御決心を・・・」山背大兄はこの進言を聴いて「卿らの忠誠は誠に有り難く思う。いまの言葉に如く軍を進めれば必ず勝つことは疑いないと思う。ただ私が心の中は既に決まっている。拾年の間は私の百姓(おみたから)をその様なことに使わないと心に決めている。我一人の身の為に大臣(おおみたから)に苦難の道を押しつけたくないのだ.後の世になりお前たちの父・母は山背大兄の御盾となって死んだのだぞ、と悲しい言葉を言わせたくない。そんな無慈悲な事までして何が丈夫の譽であろうか。己の身を捨てて多くの民を救う、これが真の丈夫ぞ。」と言われたのである。蘇我の探索に拠り一族の生駒山の隠れ家が知られる事となる。此の事は直ちに入鹿に報告された。入鹿は大に驚き軍を起こし、高向臣国押に命じて「直ちに生駒に行き山背どもをひっとらえ連れてまいれ」と言う。国押は「やつがれは天皇の宮を守る事が任務で、外に出て人を捕らえることなど出来ません」と答える。入鹿は腹を立てみずから軍を率い生駒山に行こうとする。その矢先、皇太子に成った古人大兄が息せき切って駈けつけ入鹿に「何処に行かれる」「山背を捕らえに行くところだ」古人皇子は「鼠は穴に隠れていき、穴から出れば死ぬものですよ」と入鹿を諭す。入鹿は思いとどまり、多数の兵を使ってしらみつぶしに生駒山を探させるが如何にしても見つける事が出来ない。山背大兄等は山を降り入鹿の兵たちが取り囲み全軍が注視の内に堂々と斑鳩寺に帰ってくる。寺は直ちに寄手の軍兵に十重二重に囲まれる。『山背大兄王、三輪文屋君をして軍将等に知らしめて日く、【我、兵を起こして入鹿を討たば、その勝たんこと定し、然るに一つの身の故に由りて、百姓(おおみたから)をやぶり害はんことを欲りせじ。是を以て、吾が一つの身をば、入鹿に賜う】とのたまい、終に子弟・妃妄と諸共に自ら経きて倶に死にましぬ』と日本書紀は述べ、此の時美しい長柄の絹傘が寺に垂れこめ、妙なる音が響きわたり、空は照り輝き寺をすっぽり包み込みやがて黒い煙となった、とも述べている。蘇我大臣蝦夷は山背大兄王が自身の子の入鹿によって殺されたと聞くと、大いに驚き怒り、「あー 入鹿なんと馬鹿な大それた事をしてくれた。自分の命も又狙われることが分からないのか・・」と嘆きの極であったと云う。
過去の歴史に対する考え方も例によって史学者により異なる。上原和氏の説は山背大兄は人望があり、入鹿が斑鳩を攻めたのはその名声を妬んだのだと述べ、日本書紀の記録に従っている。又、大乗仏教の教義を実践に移したとも結論づけておられその点、私も同感である。民草という言葉がある。昭和一桁の前期に生まれ戦前・戦中に育った我我年代は何度この言葉を聞いたであろう。民草は虫けら同然、雑草にも似て儚い存在である。加害者も被害者もその意識を持たず互いに傷つけあい恨みあう。その相克も総て御国のためと消化され、泡となり後を残さず消えて去る。己の命は国の為、子孫ためにと特攻となって自らの命を絶つ。捨て身の思想は父聖徳太子から受け継いだ山背大兄王の赤い熱い血の流れでもあり、同じ遠い子孫の我我の血の流れであったのであろうか。仏教が導入された当初、その教えは個人の集約した信条を問題の中心とする教義であった。其れが次第に鎮護国家の根源であるとすり変えられて、日本の精神風土から姿を消していったと上原氏は述べている。これに対して門脇禎二氏は『山背大兄は父聖徳太子に比べ人物が劣っていたと考えなければならない』とのべその根拠は推古帝の死直前の言動、蘇我氏のその前後の動きを指すと思われる。以下其れに関する書紀その他の記録を経時的に追って現代風の文に纏め、仏教導入と云う未曽有の大事に揺れ動いた当時の朝廷・豪族達の動きの考察並びにその可否判断推考の基になる記録を記述にして行きたい。

起きゃがれ小法師という玩具ある。なんど転がしても頭を上にして澄ました顔で静止する。物事もすべて世がまともならば万事が正しく元に戻る筈である。しかしそれが出来ない時代であった。時の針を天平に戻し蘇我一族のみが描いた太平の世が如何に経過したか、そこに生きた多くの人々の栄枯盛衰の人間模様を真実に少しでも近く、赤裸々に描ければと頭ばかりが空回りしている。私は以前、もう十年も前のことになるが、歴史を捻じ曲げた蘇我氏の氏族コンプレックスと云う標題で随筆を発表したことがある。物事を考える根拠となる各個人の知識は、様変わりを続け、留まる事のない環境や、年月を重ねる経験により、知識の吸収の選択も変わり、総合した知識の内容も変わる。進歩したか退化したか自分では判らない。しかし確実に物をみる目も考える内容も変わっている筈だ。この際再び書き残しておこうとす意思が次第に高まってくる。他山の石と云う言葉が有る。民主主義の世の中、他山の石がゴロゴロと道を阻み通りにくい。そんな中、私の石を拾い眺めてくれる人がいる。拾ってポイと捨てる人も多い。それで良いのだ、先ずは先に進もう。

 昔、蘇我氏と云う横暴を極めた一族がいた。天罰覿面で中大兄皇子らのクーデターで滅ぼされた。一般的にはそう思われている。蘇我氏は天皇家を凌ぐ勢いであった、にも関わらずその一族の起源となるとはっきりとしない面が多い。
 現在二つの考えが並行している。第七代孝元天皇の後裔で葛城氏と同じく竹内宿禰のあと蘇我石川宿禰と続き、その次に満智―韓子―高麗―稲目と代を重ね、権勢を極めた馬子、蝦夷(毛人)、入鹿(鞍作)で終わっている。現代の人の目からすれば大変変わった名前が系図に中に目立ち、記憶に刻まれて動かない。韓子・高麗は半島との関係を連想させ、馬子・毛人・鞍作は技術関係の系統を連想させる。門脇禎二氏の説では蘇我氏は百済の出であると強く主張され、太古からの神と固着した多くの豪族らとの対比は面白い。
  門脇氏の説は次の如きものである。朝鮮古代史を代表する三国史記によれば、五世紀末、百済が高麗に攻められて亡国の極みの危機に際し、百済の文周王と一緒に新羅に応援を求めて行った家臣の中に木満智の云う名が見える。文周王と他の一人の高官は一緒の百済に帰り戦っている事は明らかに記録されているが、満智だけは百済に帰らず「百済から南に行けり」と記されている。南に行けば半島の南は魏志倭人伝の倭国である事は十分に考えられる事である。門脇氏によると、満智は日本に来て大和朝廷に取り入ることに成功した。満智は木氏を名乗った。木満智が日本に来た475年以来木氏の一族が次々に渡来している事実はこれを裏付けると氏は述べられる。
 木満智は既に日本に渡来していて雄略天皇に信任が厚い身狭(むさ)村主(のすぐり)青(あお)や檜(ひの)隈(くまの)民(たみ)博(はか)徳(とこ)を頼って手弦を掴んだのであろう。蘇我氏の居住地は大和平野の西の隅、葛城山麓であった。木氏は一番最後に顔を出した帰化人で、最早新入りに充てる土地はなく、當時としては水田に不向きなどうにもならない土地を与えられたと考える。その地域の開発には高度の技術が必要であった。「この土地を与えよう自力で治め住んでみよ」朝廷は自分の手を汚さずに此の地域の開発に渡来人を使ったのでないか。蘇我氏の更に西側、葛城山系から瀬戸内海の平野部にわたる広大な土地は有名な葛城氏の支配領域であった。葛城氏の祖先は孝元天皇に遡る。最古の大和行政区分は数々の県に分かれていた。西南部の葛城川・蘇我川流域は葛城県と言われ特に広く、その東飛鳥の高市県、その北側が十市県、その東が莵田県、北に上がって磯城県、更に北に上がって山の辺の道には山辺県・春日県がある。太古の太古、奈良盆地に大きな湖があった。飛鳥・山の辺、磯城は陸地であっても、低くすぐに水田に転用できる地域であった。葛城県は生駒・葛城系の多山を背負い畑作には向いていても生産性に富んだ水田への転換が自然の成り行きとして渇望されていた。科学的に言い換えれば私はこの様に考えている。従って葛城氏は後発の豪族、蘇我氏はそれよりも後発、最後の豪族の推理が可能である。葛城氏も渡来人と考えるがその時期も早く、蘇我氏より有利の条件で我が国に根付き、瀬戸内に開けた経済の出入り口を持ち広大な領域を占めていた。葛城氏が入植時、その他の地域より遥かに劣る条件であったのを、瞬くまに経済性に高い農耕地に変えたには効率が高い鋭い農耕器具を使用した為と言われている。その代表は大型のU字型の鍬だそうだ。多分それと大差ないと思われる大型のU字型の鍬を私は終戦間もない頃、見たことがある。


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 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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