おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
 第四章       両頭並び立たず。物部大連と蘇我大臣の反目
 門脇氏の説をとれば葛城山麓の蘇我氏は隣接する強大な葛城氏の影に隠れ日の目を見ない存在であつた。雄略天皇により葛城氏は打たれ、その葛城氏が凋落により勢いずいた後進の帰化人であった。瀬戸内への門戸が開き交易により力を蓄えてきたが、中央に更に延びるには新たな方策が必要であつた。欽明天皇の仏教布教の可否の諮問に際し、蘇我氏興隆の戦略として稲目は手を挙げたのであろう。仏への信仰半分、氏のさらなる隆盛を計る策略が半分が真意であったと考える。一方の物部氏から見れば神武天皇を遥かに超える、忍穂耳尊の第一子を祖始とする名門中の名門である。中臣氏の祖始の兵(つわもの)主命(ぬしみこと)は伊奘(いざ)再尊(なみのみこと)と姉弟の高皇産霊皇統の出である。木氏などあまり名も聴かない何処の馬の骨か、と常に顎をしゃくった顔で見下され、白い目で見られたのであろう。その渡来族が大和の大半を制し、しかも天皇に信任が厚いとなれば心中穏やかであろう筈がない。馬子側にすれば多年にわたるコンプレックスが怨念となり、今に見ておれと敵愾心がみなぎる。両者の差が小さくなれば互の反発は白熱する。敏達天皇は仏教には余り熱がなかったと言われている。欽明帝より百済の聖明王の依頼だとして受け継ぎ、廃絶も出来ず常に中立の姿勢を保ってきた。物部氏と中臣氏は異教が雑草として蔓延らぬよう再三根っこ毎刈り取るが、馬子は異常なほど我慢強よく種をまき、又、葉を茂らせた。此の国で細々と広がりだした仏教が消滅することは蘇我氏の消滅でもあるからだ。敏達天皇が死し、欽明天皇の第四子用明が天皇になった。風向きが変わったのである。

 十四年九月、用明天皇が即位、蘇我馬子宿禰が大臣、物部弓削守屋も引き続き大連となった。用明元年五月広瀬には敏達天皇の殯宮があり、先の皇后炊屋姫が喪に服していた。敏達天皇は先妻息長広姫を一年経たずに無くし、額田部炊屋姫はその後妻であった。未だ若く容色を保つていたと思はれる。ところが穴穂部皇子が突然に来て強引に殯宮に入ろうとした。穴穂部皇子は安康天皇の皇子時代の穴穂と名前が似ている。同一人物と間違いそうだが時代が違う。よく時代劇で旗本の次男・三男たちの不良御家人が出てくるが、穴穂部皇子は穴穂皇子に似て皇位には遠い慾求不満の不良皇子であったのであろう。何故その様思うと聴かれれば、書紀に『穴穂部皇子、炊屋姫皇后を奸(おか)さむとして、強いて殯宮に入る』と記述されているからだ。血縁から可成遠い穴穂部皇子は用明に敗れ、炊屋姫と何かの関係を持ち、炊屋姫を通じ、天皇に選ばれた用命より皇位に近いと思う自身を有利に導きたい思いでもあったのか・・・。殯宮には敏達天皇の寵臣三輪(みわ)君(ぎみ)逆(さかう)が兵衛を集め宮戸を堅く閉めて中に入らせない。穴穂部皇子は「誰の命令で門を閉じる」と聞くと、「三輪君逆の命令です」と下士が答える。穴穂部は七度門を開けと大声を出すが遂に門は開かない。穴穂部皇子は大臣と大連に「三輪逆は不遜極まる、宮の庭に張り付き、『やつがれは宮の庭を塵一つない鏡の様に清め、今は亡き大君を在世の邪悪からお守りしている』とほざく。不礼極まりない。今でも天皇の子弟は大勢いる。大臣の御両所もおられ、なにも逆が出しゃばる必要はないのだ。殯宮を自分で一切仕切る心算でいる。我が殯屋に喪に行って中を見ようと思っても門を開きもせず、門を開けよと七回叫んでも無視して返答がない。此の先が思いやられる。この際懲罰してくれようと思うが、如何かな・・・」現代風に変えればこんな口調であろう。これに対し馬子も守屋も「お心が済むように」と答える。これに関し穴穂部皇子は用明に変わり天皇になろうと偽って、大臣、大連の馬子、守屋を巻き込み当面の敵三輪君逆を殺そうとした、と書紀は述べている。
 穴穂部皇子は物部守屋と兵を率い磐余の池辺を囲む。逆は三輪山に逃れ、夜間密かに山を降り炊屋姫の別荘に隠れるが密告より知られてしまう。穴穂部は守屋に「逆と子供二人を殺し来い」と命じる。守屋は兵を従え出発した。馬子はこの様子を聞き穴穂部皇子のもとに急行、穴穂部屋敷の門先で三輪逆誅罰に出かける皇子を見付け、「王たる人は罪人に近づかない。自分から手を下さないものです」と諫言する。皇子は聞かずに出発する。馬子は穴穂部に付き従い、道々強くその襲撃を辞めるよう迫るので、穴穂部は途中で馬子の教えに従い、床几に腰かけて守屋の帰りを待つ。しばらく経って守屋が兵卒を従え帰って来て「逆親子を殺しました」と報告する。馬子は傍らでそれを聞き大変嘆き悲しみ「天下が近く乱れましょうぞ」と言うと守屋は「汝ら小臣の知る処ではない」と言ったと云う。

 用命二年夏の四月二日、従来十一月に行う新嘗祭の行事ではあるが、遅れて、やっと宮の近くの川上で施行された。天皇は朝から気分が優れず、行事の途中で式場から退出し宮にもどった。前年からの疫病は尚衰える兆しは見えない。大陸半島から九州、各地に広がり、大和の中枢人物の馬子、守屋も疫病に罹り、敏達天皇もこの疫病で逝去されている。用命もその症状より疫病、天然痘、が疑われた。病状は重く天皇は心に思うところがあったのであろう、心配して周りに従う群臣に向かい、遺言の意味とも取れる重い言葉で「朕、三宝に帰らむと思ふ。卿ら議れ」と言ったのである。多くの朝臣が集まりこの詔(みことのり)を如何に扱うか協議をした。物部守屋大連、中臣勝海連は「我が国には遠い国の
始めより国神を敬い、国の礎としてお守りしてきた。今なにの理由で天皇が他国から伝わって来た仏を敬い、信徒となると申されるのか。左様の妄言は到底うけいれることは出来ません」と真っ向から反対する。蘇我馬子大臣は「生死を分ける大病の用命帝がこの様な大事を、皆で話し合い決めてくれ、と我我臣下に節を曲げて懇願しておられる。この心の底を察し、帝に心の安らぎを差し上げるのが臣下としての道でないか、とやかく反対するのは帝に対する反逆である」と反論し協議は一向にまとまらない。馬子は用命帝の異母弟で同席していた穴穂部皇子らを率いて話の途中で内裏に引き上げてしまう。つまり蘇我氏は天皇家の親戚である。物部は警察・司法権力の頭であっても連で所詮家臣であった。守屋には馬子の態度は,お前らとは問答無用と物部氏の存在を無視されたと映ったに違いない。守屋はその姿を横目で睨みつけ、声を挙げて怒ったそうだ。此の時帰化人で押坂部史毛屎(おさかべのふびとけくそ)があわててきて、守屋に耳打ちして急の大事を知らせた。「今、蘇我大臣達は貴方を図り殺そうと相談して、宮からの退出の道を断とうとしています。急ぎお逃げ下さい」。大連守屋は驚き急ぎ宮から脱出し今の大阪府八尾市跡部にあった守屋の館に帰り、兵を集め守りを固める。中臣勝海連も館に兵を集め大連と共に行動を起こす。馬子は用命帝が重篤であることより死亡すると予測していた。後の天皇には既に亡くなっている息長広姫と敏達天皇のあいだの彦人大兄王か、後妻の額田部炊屋姫と敏達天皇との間の竹田皇子を考えていた。彦人皇子は蘇我氏とは血縁がないが、その皇子を第一候補に挙げたことは、此の當時の馬子は己の利を剥き出しにせず、未だ理性を保っていたと思う。守屋・勝海は用命帝の皇后穴穂姫の弟穴穂部皇子を地位が対等に近く対抗馬として相応しいと考えていた様だ。中臣勝海連は馬子側の彦人皇子・竹田皇子の像を作り呪詛(じゅそ)して抹殺を図る。よく時代劇で藁の人形を作り木に釘で打ち付けて呪文を唱える場面があるが、當時からその様な風習があったかどうか、書紀は詳細を述べていない。しかし用命帝の病状の進みは早く、その死が迫っており、呪詛による馬子側の両皇子の死去・失脚では間に合わないと知るや、全く正反対、逆に馬子側の候補彦人皇子を守屋・勝海側に取り込もうと画策する。書紀はこれを『暫くありて事の成り難きを知りて、帰りて彦人皇子に水派宮に付く』と述べている。中臣勝海は守屋と相談し彦人皇子説得のため、水派宮(みまたのみや)に出向いたのであろう。その前に守屋らは後継候補としていた穴穂部皇子対し説明・納得などはされたと推測されるが、この一連の行動はよく馬子側に筒抜のであったようだ。聖徳太子の舎人迹見赤檮(とみのいちひ)が、主の聖徳太子と図った上のことか否か不明だが、勝海連が彦人皇子の水派宮から退出するところを狙い不意を突いて襲い、中臣連を斬り殺してしまう。両者の衝突は最早決定的の段階に達していた。 物部大連は阿津の家より、物部八坂、大市造(おおいちのみやつこ)小坂(こさか)、漆部造(むりべのみやつこ)兄(あに)を使者として蘇我大臣の元に送り、大連の伝言を伝えさせた。「やつがれ、郡卿我を謀ると聞けり。我この故に退く」。是の言葉を聞いた馬子大臣は守屋の怒りを身近に感じ、ただちに土師八島連を使いとして大伴比儸夫連の元に使わして、守屋から来た使者の言葉を大伴連に伝え、味方となって身の護衛をお願いすると言わせた。大伴連は手に弓矢、皮盾をとって馬子の槻曲の館に行き夜昼付きっきりで馬子を守る事になった。
 用命天皇の病状は日々悪化を辿り、危篤状態に成った時、司馬達の子鞍作多須奈が天皇の枕元に進み出て、「やつがれ、我が君の為に出家して、修行の道に入ります。又、丈六の仏像を造り、寺を建立します」と奏上する。天皇はこれを聞き悲しみ、又、涙を流して喜んだと書紀に記されている。今、南浦にある坂田寺の丈六の仏像、脇侍の菩薩がこの話の仏である。[高市郡明日香村坂田に坂田寺旧址がある] 四月九日、用命天皇は宮中にて逝去された。
用命帝は仏教への信仰が深かったのであろう。その信心の深さが自身の死に直面して、己の立場を考える力を失わせた。『我は死後仏教に帰依する』など決して言ってはならぬ言葉を口にしてしまった。多年に亘る群臣達の仏教信仰を巡っての抗争を考えれば、自身の死後に何が起こるか容易に判断できた筈である。あとに何が起こったか、血のりを血で洗い流し、又、血を塗り重ねる。多くの神代の昔からの重臣が、又、家臣たちが憤怒、怨恨の坩堝の中に消え去った。人とは所詮動物であり、闘争本能はかき消すことは出来ない。その歴史は繰り返す。美しい歴史など世界に何処にも有る筈がない。世界中で尚、性懲りもなくこの歴史が繰り返されている。
物部大連側とすれば中臣連が斬殺せれたことなど驚天動地の連続であった。その後の守屋大連の戦略に齟齬が生じたことは想像できる。馬子側は有利の展開で攻撃の手を緩めない。六月七日、敏達天皇の皇太后炊屋姫を奉じて佐伯連丹径手、土師連磐村、的連真嚙に詔勅の形で命令した。「そなた達は兵を率い速やかに穴穂部皇子と宅部(やかべの)皇子(みこ)を殺してこい」
宅部皇子は宣化天皇の皇子と解説されているが時代が合わない。穴穂部と無二の友であったので狙われたらしい。その日の夜半、佐伯連丹径手(さへきのむらじにふて)らは穴穂部皇子の宮を囲む。穴穂部は高殿に逃れた。兵士達は追って、皇子の肩に切りつける。皇子は高殿より転落し館内の一室に逃げ込む。追手は部屋に燈を灯し隠れていた皇子を斬り殺す。宅部皇子も六月八日に殺される。
先に馬子が司馬達の娘を尼僧とし、二人の供の尼と共に自宅に仏殿で奉仕していた善信尼たち三人が「出家して尼となっても戒律を受けなければ意味が有りません。百済に行き戒律の教義を受けたいと思います」と馬子に願い出た。此の月のたまたま百済の調使が来ていたので馬子は「尼達を百済に連れて帰り、戒律の履修をさせてくれないか。終わった時に帰れるよう手筈をしてくれ」と言う。使史は「帰って国王に相談してみます」と答える。流血の連続に尼達は馬子の信仰に疑問を抱き、百済に行きたいと思ったのでないか。百済の使史も、あまりの情勢不穏にこの国の前途に不安を覚えたにでないかと私感が起こる。

 秋七月、蘇我馬子宿禰大臣は諸皇子と群臣を集めて、物部大連を滅ぼす相談をする。泊瀬部皇子、竹田皇子、厩戸皇子、難波皇子、春日皇子、蘇我馬子宿禰大臣、紀男麿呂宿禰、巨勢臣比良夫、膳臣賀拕夫、葛城臣鳥那羅らは会い集い兵を組み、物部大連征伐に出発した。

 その當時の大阪平野の様子は今とは大変違っていた。関東平野も今では想像出来ない程大半が海の底であった事から、この列島の沿岸部の多くは尚海の底であった様だ。今の大阪平野の大半は浅く広い沼地で、奥は生駒山地に達していた。大和川、木津川等周りの河川は大阪湾に注ぐのでなく、河口付近で初期のデルタ地形を形成して葦原が茂り中央の沼に注いでいた。瀬戸内海の東の突き当たりであり、波も荒く大阪湾に流れ出た砂利・砂はこの波に押し戻されて小高い砂州の丘を形成していた。例えて言えば天橋立の幅が何十倍・何百倍と広く、北側の尖端で沼が大阪湾に開けていた。太古の人口運河難波堀江はこの大きな土手の半ばを深い人工運河で繋ぎ、堀江の中ほどに浪速津を構築、歴史でしる後世の難波京はこの難波津を中心とした先進都会であった。物部守屋の館は此の上町台地にあり今の四天王寺の近くであった。瀬戸内海との交易の出口事務所的役割であったと考える。守屋大連の本館は今の八尾市渋川にあり阿津の宅と言われていた。山尾幸久氏の説によると、馬子の進攻軍は二軍に分かれていたらしい。一軍は日下越えで難波に直行した。現在の石切神社あたりに出る辻子谷越えで、奈良から難波へ直通の路を進み、沼の入江の桑津から上町台地へ進み南から館に攻めかかったと思はれる。これは守屋の退路をたち、又、瀬戸内海からの武器と人の援軍を断つ作戦であったと思う。



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