【若くして社会主義を謂わぬ者は心が無い、四十を過ぎ尚社会主義を謂う者は頭がない】以前聞いた諺である。誰の言葉か知らないが、真を得て妙なものと私は思うが、人様々であろう。心念を貫き、賢哲の人と敬意を抱く人もあれば、自を堅持し実の世情に背き、己を救世の賢人と自惚れていると、その評価は全く相反する。聖徳太子の場合はどうであろうか。太子の父は、用命天皇で欽明天皇と蘇我稲目の娘堅塩姫の間の子である。太子の母は欽明天皇と蘇我稲目の娘小姉君の間の穴穂部皇女であつた。複雑な血筋であるが蘇我馬子は太子の大叔父であり、推古天皇は伯母であった。つまり蘇我の血筋の真っただ中の生れと云える。蘇我の中心人物馬子は若い太子には尊敬と憧れの的であったと思う。それ故に物部氏との争い丁末の役では渾身の力を発揮、第一の功績を挙げた。その太子を馬子も大変に評価し、蘇我氏の権勢維持の目論みもあり、将来の帝位も考えていたと思う。日本に初めて渡来した仏教は大乗仏教であった。大変に戒律が厳しく、此の教えは、己を全て捨てて、多くの衆層に奉仕して一切の見返りを期待しない。それに拠所を求めて心も昇華し、空になった時、其れが悟りであり涅槃の道に入ることが出来る。百濟の聖明王は己の国でこの厳しい布教を諦め、大和に将来を期待したのである。当時聖明王の依頼でもあり、無碍に断りもできず、稲目がその教義を預かった。しかし、権勢の全てを手のした蘇我はその教えの裏返し、他の多くの犠牲の上で一族の利権を貪る野獣と化しつつある。成長した太子の心にその批判が息付き始めたのでないか。その様の思われるのである。斑鳩に住居を移したのも、馬子との距離を置き、推古帝との直接の摩擦を避ける意図もあったかも知れない。大乗仏教の経典で法華経・維摩経(ゆいまきょう)・勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)が有名である。仏教の本来の教義の原点に立ち、朝廷内外の心奥を教化しようと、太子はその機会を推古天皇に要請していたのでないかと思う。『推古十四年七月、天皇、皇太子に請せて、勝鬘経を講かしめ賜う。三日に説き竟へつ。是年、皇太子、又法華経を岡本宮に講く。天皇おおきに喜びて、播磨国の水田百町を皇太子に施りたまふ。因りて斑鳩寺に納れたまふ』と書紀にはのべてある。簡単に記述を飛ばしているが、行間を読むと先人が言う。表に出ない事実がこの記述からくみ取られる。この講習は推古天皇・蘇我馬子に対する諫言が目的であった。とある史学者は指摘する。当時の世情より種々の動機が推測されるが、主目的は矢張り諫言であろう。 勝鬘経はインド王の妃勝鬘夫人が仏教に帰依し釈尊に誓いを立て、烈烈たる告白をした次第を経文にしたものである。私は生涯慢心や、怒る心を抱きません。又、妬み心も抱きません。財産を備蓄せず衆人の為に奉仕を全うします・・・などが集約されていると推測される(勝鬘経を読んだ事がないので)。この講習会には推古天皇の呼びかけでもあり、蘇我馬子その他群臣百寮が出席したと思われる。さながら僧の如く勝鬘経義疏を講じたと他書には記されている。義疏とは解説書の事である。推古・馬子共に物事を見る目は俊敏であり、聖徳皇子の意図は始めから承知の上であった。このことにより表面には出さないが馬子と太子の、開いていた距離が更に大きく成った筈である。 推古十五年七月三日、大礼小野臣妹子を隋に使いとし、通事として鞍作福利を添えて出国させた。ただそれのみ書紀には記述されているが、歴史で名高い太子の隋国王に宛てた国書を妹子は携えて行った筈である。 百濟・高麗から相次いで僧呂や、堂塔建立に不可欠の大工、左官、瓦士、絵師、仏師が来朝しそれらの力は我が国の技術面、経済面で発展を加速させた事は明かである。しかしその流は広大な大陸の平原・関中の先進技術を百済・高麗を介しての受け入れであった。航海技術の進歩により大陸からの直接導入の道を探るのが前方に開けた大きな道である。太子らの頭脳集団が選んだ最良の道筋は、大国隋の皇帝に直接国書を奉呈し国交を開くことであった。半島を通じこの列島の世情、経済、政治面の変遷は可成詳しく隋の情報筋が知るところであったと思う。中国には古来女帝の存在の歴史はなく、女性は生を受ける次元が異なる者とされていた様に思われる。その女性を自身の利に走り天皇に選んだ事に馬子の人としての人格が疑われていたと推測する。最近この話はあまり話題に登らないが、隋への国書に、太子は事もあろうに『日出ずる国の天子、日没する国の天子に致す。恙無きや』と切り出している。不勉強でその後に続く文を知らないが、戦時中、軍部は此の勇ましい出だしの文を引きだして聖徳太子を讃え、国民の戦意高揚に利用した。[我が国はおとこを日子(彦)、女を日女(姫)と言う。女と男は同じ日から生まれ同格だ]「日が勢いよく昇る東の国の王から日が沈む西の国の皇帝に訊くのだが、近頃間違ったことをしていないか・・・」『我が国で同格の女の天皇を選んだ事をとやかく言っているようだが、間違っていないか』の意味だと思えてならない。馬子はこの大切な手紙を太子に書かせ、一種の踏み絵にしたのでないかと最近フッと思うことがある。用命天皇の死後、後継ぎに厩戸皇子ではなく、己の利を目的人して崇峻天皇を据え、その天皇を殺し、更には敏達天皇の皇后を引き出して推古天皇としたことを、全て馬子の常軌を逸した行動と皆が思っている事実、太子自身の不満がどの程度のものか・・・太子は賢明のひとである。この罠には乗らなかったのである。 当時の政治背景を筆者独自の推理を拡大し文字としてまった。その無責任には悩むが、隋書倭国傳にもこの無礼な国書に関する記述があり、事実の事であろう。太子は大変悩んでいたと推測する。若し隋の若い皇帝が冒頭の書きだしをまともに取って怒り、太子が送った使者小野妹子が殺されでもしたら、と心配が尽きない日々であったと思う。しかし隋書には『不快だ、相手にせずに放っておけ』、の意味の文が残っており、多分小野妹子らに質問が及び、その背景が理解されたのであろう。翌十六年四月小野妹子が隋より帰って来たと書紀は述べている。太子にとり至上の朗報であったと思う。しかも、妹子には隋の使者裴世清とその供十二人が同行していた。太子の心配は感謝の心に変わっていたと考える。難波の吉士雄成を遣わして接待係とし、難波にある高麗館の上に新しい迎賓館を作るなどその対応でもよく解かる。六月十五日、客達は難波の新築の館に泊る。この日、飾り船三十艘で淀川の河口の江口に出迎え、新しい館に送ったと記されている。中臣連・大河内(おおこうち)直(あたえ)・船史(ふねのふびと)王(おう)平(へい)らも接待役として出席した。この席上、妹子は「私が帰国の折り、隋の王は私に手紙を渡されました。百濟の国を旅している時、百済人が盗みに入り、大切なその手紙を無くしてしまい、上呈する事が出来ません」と申し出た。群臣はこれを大事ととり、「国の使いたる者は死んでもその任を護り通すのが道であろう。大使は油断し、その任務を軽く見ていたのではないか」と非難され流罪にせよと決まった。この始終を推古天皇が聞き、「妹子は大切な国書を失う大失態をしてしまつたが、軽々しく罪を着せるのは待つが良かろう。この情報が隋に知れてしまったら、更に支障が出るであろう」と罪を待(ま)逃(のが)れたのである。 八月になり隋の客は京に入った。七十五頭の飾り馬を出して海石榴市で客を迎え招き入れたのだ。額田部連比羅夫が歓迎の挨拶をした。十二日に朝廷に参入、使者が天皇に来朝の由を述べ皇帝の言葉を言上した。隋よりの進物を宮中の庭に繰り広げ、正史の斐世清は進物を読み上げ、再度天皇に礼拝して隋皇帝の文を朗読した。『隋皇帝は倭国の王に手紙を差し上げます。貴国の使い小野妹子より訊き、貴方の思いが解りました。私はそのお心を嬉しく思い、共に徳を広め、遍く世の精霊にも行きわたらせたいと思います。民を養い愛しむ心は遠い人、近い人も同じです。貴方が遠い海の彼方で大民を撫で慈しみ、国中の民に安堵の心を与え、更には遠い我が国に友好の使者を送られた事、類稀なる美しき心と、心から喜び、この頃は元の穏やかな心に戻りました。ここに鴻臚寺の高官斐(はい)世(せい)清(せい)を遣わしてやっと私の手紙を差上げ、又贈り物を送ることが出来ました』と朗読した。真に立派な誠意溢れる文面と思う。この頃は元の穏やかの心に戻ったとの箇所は、前述の我が国からの国書の無礼を暗に批判したのだと感じる。九月十一日、隋の使いは帰国した。その使いと共に小野妹子も再び正使として出発、副使は吉士雄成、通事は副利であった。此の時、留学生八人が同行した。倭漢直副因、奈羅譯語恵明、高向漢人玄理、新漢人大圀、学問僧新漢人日文、南淵漢人請安、滋賀漢人慧穏、新漢人広斉らである。 この遣隋使派遣に関する記述で気付く所が有る。それ以前の書紀の記述には必ず皇太子詔して曰くとか、馬子宿禰群臣と謀りとか、必ず会議・式典・突然の変事には両者の名があった。しかしこの遣隋使派遣と答礼の使節の来朝に関して皇太子や馬子の名は出てこない。書紀の編集者集団が変わったか、理由が有って名前を省いたか、実の所は、使節接待に出席を遠慮したのか。例の聖徳太子国書で問題になった女帝の権威の強大さを印象付ける為に双方とも表に出なかった、とも考えられる。推古記後半の馬子や太子の記述が少ないと思うのは、私だけの印象であろうか。しかし推古記後半には特筆する事件も少なく百濟・新羅の調貢団の来朝、異常気象、旱魃に備え多くの池の構築、道路の整備などが淡々と記され、太子や馬子の死去の記述、そして推古の崩御で次代に続いている。不思議の事には馬子・太子が中心となり編纂した新しい歴史に関する記載が全くない点である。この新しい歴史の編纂は馬子が蘇我氏の将来に懸けた大事業であり、その深因の解明が究極の興味と私には感じる。ではこの点に的を絞って文を続けて見たい。
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