又、山背大兄王の異母兄弟の泊瀬中王は影響力のある中臣連・河部臣を呼びだし「我ら親子はみな蘇我氏の血筋を深く受けていることは、皆に良く知られている事だ。故に蘇我氏を高く聳え立つ山の如く信頼している。次代の帝位を軽々しく口にしないで欲しい」と告げ、更に三国王・桜井臣に命じ議政官と一諸に「ご返事をお聴きしたい」と申し出た。 これに対し蝦夷大臣は紀臣・大伴連を三国王・桜井臣に送り、次の様に返事をした。「先の言葉で全て終わった筈だ。その後に変わった事はない。念の為言って置くが、私蝦夷は何れの王を軽く見て、何れの王を重く見ているわけでは無い」と答える。更に日数を経て山背大兄王は又桜井臣を蝦夷のもとに送り「先日申した事は私は聞いた真の事を申したに過ぎません。どうして叔父御方に異論を持つ事がありましようや」と言わせた。この日蘇我大臣は体調がすぐれず、桜井臣に合わなかったが、次の日に大臣は桜井臣を呼び出し、阿部臣・中臣連・河辺臣・小墾田臣・大伴連らに桜井臣に合わせ、山背大兄王に伝える様に次の如く言わせた。「欽明天皇の御代より今に至るまで、仕える群臣は皆頭が冴え立派な者たちある。唯、私だけが至らぬ者と思っているが、代わる人材がおらず、多くの臣の上に立っているが私の人徳不足の為か事がどうしても中々決まらないでいる。次の帝位の決定の遺言の内容は機密で伝える事は出来ない。心労が重なりこの問題から逃げたい気持ちだが、はっきりと申し上げたい。遺言の事は間違っていない。是は私の意志では無い」この伝言を阿部臣・中臣連に伝えた際、蝦夷は更に境部臣に向かい質問したと書紀に記されている「田村皇子と山背大兄とどちらが天皇に良いだろうか」蝦夷の叔父に当たる境部臣摩理勢は「何で言う事がありましょうか」と怒りを露わにしてその場から立ち去った。この時、死んだ馬子大臣の墓を造る為、蘇我氏の面々は各々の作業場を墓所の近く造くっていた、摩理勢臣はその作業場を壊し、自分の寮に引き揚げ、以来出てこなかった。蝦夷は是を怒って身狭君勝牛・錦織首赤猪を使いとして摩理勢に伝言した「叔父が不礼を働いていても身内であるので、罰する事を控えている。若し私が非条理で叔父が正論を言っていれば、私は叔父に従う。もし叔父が間違を知りながらそれに固執するならば、私はこれを許さず断固反対する。それでも尚、私に逆らうならば貴方と絶縁する。されば国が再び乱れる。後世の人は二人がこの国を駄目にしたと云うであろう。これは末代までの恥である。この事を考えて反抗は止めてくれ」。しかし摩理勢は依然としてこれに従は無かった。余程腹に据えかねぬ事が有ったのであろう。自身の館を出て斑鳩の山背大兄の異母弟の泊瀬王の宮に移り住む。蝦夷大臣は激怒し、又、議政官を使いに出して山背大兄に仲立ちを頼むと思わせる発言をしている。「摩理勢叔父が我に逆らい泊瀬王の宮に隠れて音沙汰が無い。摩理勢叔父を出頭させてくれないか、その訳を聞きたいと思う」これに対し山背は「摩理勢臣は私の父聖徳太子と強い親交があり、色々と有って来辛く成ったのでしょう、蝦夷大臣に心の芯から逆らう気など無いと思います。お願いですから臣を咎めないで、様子を見てください」。次に山背大兄は摩理勢に次の様に語っている「摩理勢臣が私の父太子に恩義を感じ、私の為に強く働いてくれている事を大変感謝しております。しかし、貴臣が逆らうことで乱が起こる心配があります。父太子が臨終の席で私ら子供の向かい『どんな事でも悪い事はするな、良きことの実踐に努めよ』と申された。私は此の事を常に心の戒めとしています。私は今回の経移には納得できませんが、我慢して蝦夷大臣を恨むこと有りません。良く私の為に尽くしてくれた貴臣を、これ以上窮地に落としたくないのです。なに憚る事無く大勢に加わり蝦夷大臣に従って下さい、お願いをします」摩理勢の近従たちも口を揃えて「山背大兄の言葉に従うべきです」と摩理勢に進言する。摩理勢臣の心は乱れに乱れても纏まりがつかず、号泣して館に帰り閉じこもって十日余り、泊瀬王も心痛の極みで急逝してしまう。摩理勢臣は身の置き所を失い「この後、生きるとも誰を頼たらよいか」と絞るような声で言った。 蝦夷は境部摩理勢臣を殺さんと軍を編成し攻めてきた。摩理勢は二男の阿椰を共に連れ門の所に出て床几に座り、寄せ手の兵の至を待った。来目物部伊区比が命により、親子の首を斬りその場に埋めた。しかし長男の毛津はある尼寺の母屋に逃げて隠れた。ここに毛津の愛する尼がいたのであろう。他の尼が其れを嫉妬して密告し、毛津は更に畝傍山に逃げるが追手は山中を探しまわる。毛津は最早逃れられないと覚悟、首を刺し自害した。 長い一連の日本書紀の記述はここで終わっている。書紀編纂者の此の事変に対する特別の思いが私に伝わってくる。[行間を読む]と古き良き言葉が有る。行間を私なりに読んで訳文を書き、行間を広くあけ、読む人の誤認が無いように務めた心算である。果たして諸氏は如何に感じ取られたであろうか。人、様々と推測する。専門の史学者の間にも多くの発表もあるが、これも人様々である。私は専門外の素人であるが文題に [蘇我大平記] と大それた名前を附した以上、私なりの推考も必要であろう。 私は先ず二つの要点に絞って推考を進めたいと思う。その一は推古天皇と摂政の聖徳太子の間は決して緊密の連帯関係では無かった点である。正確に言えば太子の祖母の小姉君と推古天皇の母堅塩姫の関係が基にある。蘇我稲目は多くの子持ちであった。全てが正妻の子であったとは考えられないが、一番上の堅塩姫は欽明天皇の皇后となっている。二番目の娘は用命天皇の妃となり、次の小姉君は欽明天皇の妃となり、次が蘇我馬子、その次が境部摩理勢臣である。小姉君と馬子は年齢も近く姉弟の親密度も年が上の堅塩姫より深かったと考えたい。小姉君はそこから来た通称であろう。つまり堅塩姫は皇后、小姉君は妃で欽明帝は姉妹二人を妻に持った事に成る。寵愛の度がどうであったか、若い小姉君に深かったと普通は考える。対抗意識、嫉妬は人間である以上男も女も自己愛の本能である。男の嫉妬はより深いとよく言うが、女も同じであろう。堅塩姫の子の額田部皇女(推古天皇)は母から叔母小姉君の話を聞き、子供ながら一種の対抗意識あった。其の上、敏達帝の死後、皇后額田部皇女に色々と不逞の行為が有った穴穂部皇子は小姉君と欽明の間の皇子であった。更に馬子に対抗意識を露わにした崇峻天皇はその弟であった。更に加わえて厩戸皇子(聖徳太子)妃として推古の娘が稼いできているが、この推古の皇女の消息は全く解っていない。その後どうしたか、若くして他界したか、それとも他の理由が有るか。あれや、これやで推古天皇は潜在的に蘇我氏の小姉君系の人脈に不信感を抱いていたのでないか。 推測を根拠とした論方で説得力にやや欠けるが、第二点の根拠のヒントは書紀の記述にある。次の記述である。蝦夷大臣が体調を崩し山背大兄が見舞いに元興寺に行った事がある。その時、推古天皇は采女の鮪女を遣わして山背に教訓めいた言葉を告げている。「汝の叔父蝦夷は何時も其方の事を心配だと言い、百年後にはやっと天皇に成れるのでは・・と漏らしている。その事を考え己を精進して高めよ」。山背大兄の父聖徳太子は若くして聡く、事に対して機敏であった。物部との丁未の役に太子の働きが無ければ勝負の帰趨は逆であったかも知れない。蘇我血筋の真只中に生を受け、年を重ねるにつれ深い信仰心は釈迦の教えの真髄の大乗仏教に次第に傾注していったと考える。天皇・馬子その他群臣に法華経・勝(しょう)鬘(まん)経(きょう)を講義して、心の目覚め啓蒙し、遂には斑鳩に居を移し蘇我との間を置くのもその証であろう。その背中を見て育った山背大兄は、父に輪を掛けた大乗の教えにどっぷり浸かった申し子であった。[己の本能を殺し総ての生類に身を捧げる。其れが日常となり、己が無と成り、昇華した時が悟りであり、涅槃の世に至る]。この教義は幻の理想であり、政治も社会経済が成り立たない。山背には困ったものだ、あれでは天下の事は任せられない。推古天皇は蝦夷に話しかけ、蝦夷も同じ意見で無かったか。良く推古天皇は馬子の操り人形であったと言われる。私は晩年、特に太子の死後、次第に推古天皇が優位に成っていたと考えている。その馬子の死後三年、推古帝の意志は完全に蝦夷の行動に直結してといたと思もう。山背大兄は父と違い苦労知らずの人が良い性格であったようだ。教訓を期待され将来天皇に、と望まれていると、解釈し喜び感激したのだ。後継の天位を選ぶ軋轢の間、山背兄は幾度も推古天皇の遺言の詳しい内容を明かにせよ、と要求している。山背兄を不可とする主な理由は、釈尊が説く教義の本筋、大乗仏教を否定するものだった。仏教を後ろ立に自族の繁栄を成し遂げ、幾重にも周りを取り巻く群族の信仰心の支えに拠り、盤石の基盤を持つ蘇我氏である。その根元の教義を否定する事は、自らの蘇我氏を排除すると同じであった・・・。これが遺言の機密を絶対に表に出せぬ理由と考えたい。 尚一つ疑問が残る。境部摩理勢臣は自らの死を招く危機を知りながら何故最後まで蝦夷に反抗したのであろう。摩理勢は馬子の弟であった。馬子は七十六で二年前に他界している。是より勘案すれば、此の時既に七十の坂を越していたと思う。血筋と云い年齢と云い、最長老であった。蝦夷はこの摩理勢を司会役として後継の天皇を選ぶ会議の議決を一挙に田村皇子に決めようと思っていた。これは推古天皇の意向でもあったと考える。しかし根回しとなる二人の話合いは、案に相違して摩理勢臣が山背大兄王を推挙したことであった。蝦夷は摩理勢に翻意を何度も促したと思う。しかし話は物分かれと成った。その後蝦夷から音沙汰も無く、最初の蝦夷の館での宴会となった。この席に摩理勢は招待されなかった様子である。そして進行役・司会役を務めたのは阿部臣であった。以下前述の如く次第に緊迫した経緯となった。子供扱いにされた。摩理勢が激怒するのは当然である。若し馬子が生きていたら、と考える。人を包み込む老練さが未だ蝦夷には無かった。その子の入鹿の不逞な態度も、肝に据えかねるものであったと推測される。侮辱されたと思う無念さ。男の一分(いちぶん)で身を捨てる行動に出て、摩理勢父子は生を見出した。これは後世の武士の一分(いちぶん)に理を同じくするものであろう。 推古天皇三十八年破乱の年が明け舒明元年正月四日、蘇我蝦夷・群卿らが選んだ天皇の認証を舒明天皇に奉る。天皇は是を辞退し、皇統を繋ぐことは並大抵の人が出来る事とは思っていない。私はその才覚も人格もない、と堅く辞退をされる。「田村皇子を先帝は大変に愛おしく思われ、又、神も人もそれに相応しい人柄と心からお慕い申しております。天位をお継ぎ頂、国中の大臣(だいおみ)の心を安んじ下さい」と奏上し皇子はこれを受けた。舒明天皇の正式の誕生である。翌二年、正月十二日、宝皇女を皇后とし二男・一女をお産になった。長男を葛城皇子、次が間人皇女、末子が大海皇子である。葛城皇子は後の中大兄皇子、即ち天智天皇になる。
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