おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
      第九章       馬子から蝦夷へ

  三十二年に十月の項に面白い記述がある。蘇我馬子が阿曇連某と阿部臣摩呂を使いとして馬子のおねだりを推古天皇に奏させた。「葛城県は我が蘇我氏のそもそも根拠地です。この土地があったればこそ今日の蘇我氏が有ったのです。その大切な県を蘇我氏の私有地として下賜下されば有り難く思います」これを聞いて天皇曰く「私は蘇我氏の出です。馬子大臣は私の舅でもあります。若し大臣のこの言葉を夜聞けば、そのことを考えて一晩中寝むれないでしょう。朝に聞けばその事を思い夜が来ません。一体どうしようか迷ってしまいます。しかし私が天皇在位の時、此の県を失ってしまうと後世の人は、『女とは愚かなものだ、気軽に先祖代々の県を手放してしまった』と言うでしょう。ただ私が馬鹿にされるだけでなく、『大臣も皇室の財産をねらうとは不忠の人だ』と言われるでしょう」と言って断った。
 三十四年の正月に李桃の花が咲いた。三月には霜が降り不安定の気候が続く。
五月に蘇我馬子宿禰が薨じた。七十六歳であった。蘇我一族は下桃原に大きな墓を造るが完成には数年間を要したらしい。馬子は武略に優れ、又、弁才が有り蘇我氏の要としてその存在は絶大であった。飛鳥川の畔に館があり、庭に水を引き込み池を作り、池に小さな島があり、島大臣と言われた。
 六月には雪が降る異常気象が続き、三月から七月まで冷たい雨が多く大飢饉となった。老人は草の根を食べ、道端で倒れて死んだ。幼い子は母親の乳房にしゃぶりつき、母子共に死んでいく。又、強盗・空き巣狙いが横行し、社会は破壊し滅亡したも同然だった。その年も越え次の年も、余り作柄は良くなかったようだ。
 三十六年二月二十七日推古天皇が病で床についた。三月二日、日食があった。日、蝕え尽きこと有りと記されているから、皆既日食か金環食であろう。三月六日、天皇は体の痛みがひどく危篤状態となった。何処の痛みとは記録がない。発病から約一週間、腹膜炎か癌の末期の痛みか。天皇は敏達天皇の先妻の皇子、彦人皇子(この皇子は物部氏との争乱丁未の乱の際に蘇我馬子により殺されている)の忘れ形見、田村皇子を宮に呼び寄せ「天皇の位について萬の政治を司り整え、あらゆる試練をのりこえて国の大民を養うことは、並大抵の事ではない。汝、良く考えてその位に付くかどうか返事をせよ。気軽に答えを出すので無い」と問いかける。その日に又、文頭に挙げた聖徳太子の直裔、山背大兄を宮に召して「汝は未だ若い、若し帝位に付きたい望みが有っても、自分から言い出しては成らぬ。必ず郡臣達の協議の決定に従うように」と言われた。天皇は翌七日に崩じた。七十五才だった。馬子より三歳若い叔父と姪の長い政治の茨の道が終わった。
数年間の天候不良で不作が続き天皇の悩みも大きかったのであろう、生前に次の様な遺言を残している。「近頃五穀の実のりが悪く百性はひどく飢えているのが身に辛い、我の為に陵を立てる事など絶対にするな。我が子、竹田皇子の墓に一緒に葬って欲しい」。
その年の九月二十日、推古天皇の喪礼が始まり竹田皇子の陵に葬った。未だ後の天皇は決まっていない。馬子・守屋は生存せず蘇我蝦夷が一人の大臣でこの難事を決めなければならない。しかし蝦夷が馬子に変わって年がまだ浅い。群臣に一応計るのが丸く収まると安易に思ったのであろう、蝦夷は阿部麿呂臣と図り群臣を自分の館に招いて饗応した。宴が終わり皆が帰り支度の合間となり、阿部臣が蝦夷に促されて群臣に話を切り出した。「推古天皇が薨じられ時が経つが、未だ後をつぐ天皇が決まっていない。これを延ばしていくと万事が乱れる元となる。いずれの君を後継と定めるべきか、先帝が危篤と成り田村皇子に詔して『天下は大任なり、本より輙(たやす)く言うものに非ず。汝田村皇子、慎みて察(あきらか)にせよ。緩らんこと不可(まな)』と申された。次に山背大兄王を召して申されるには『汝独り騒がしく申すではない。必ず群臣の決定に従うよう慎むべし』と申された。是が天皇の遺言である。今誰を天皇とすべきか諸臣の意見を聞きたい」と述べた。座はシーンとなり誰も答える者がいない。阿部臣は重ねて問うが、だれも答えない。「もう一度聞く、誰も答えが無いのか・・」ここで大伴鯨連が座を進めて口を開く「天皇が遺言で云われた事であり、我我臣下が申し上げる事ではないと思います」阿部臣は「その返事では判らん、汝の思う事を申してみよ」大伴連がこれに答え申すには『天皇が如何に思われていたか。『天下を治める事は大仕事である。だらだらとした態度で事に臨むでない』と申された。これに拠れば、先帝の意志は既に決まっている。誰が一対異存を申せましょうか と言う。これに対して采女臣摩伶礼志・高向臣宇摩・中臣連彌気・難波吉士見刺の四臣が「今の大伴連の御言葉は最もな考えと思います」と言う。許勢臣大麿呂・佐伯連東人・紀臣鹽手の三人が進み出て「山背大兄王を後継天皇と私共は考えています」と申し出る。唯蘇我倉麿呂だけは黙して語らず、やがて「私はただ今の所即座に意見を申せません。後ほど考えを申します」と答える。蝦夷は皆の意見が纏まらず、一日で後継の天皇を決める事は無理だと考え、途中で席を去ってしまった。
 実はこの会合の前に蝦夷は蘇我氏の稲目からの分家、境部摩理勢臣に「今推古帝が無くなって後継が決まってない。誰を天皇にから良いかのう・・・」と身内の相談する。これに対し摩理勢は「山背大兄が良いでしょう」と答えている。蝦夷はその意見を知っての上で自宅に皆を招き謀ったのだ。その会合の紛糾の様子を斑鳩の山背大兄は聞いて、三国王と桜井臣和滋古を密かに蝦夷の元に送り、次の様に自身の思いを伝えた。「私が聞くところによると、叔父上は田村皇子を後継の天皇にしたいと様子と聞きました。この事を聞き私は立つて思い、座って思っても、どうしてもその理由が解りません。この際、叔父上の本心をはっきりとお聞かせ下さい」この使いの言葉を聞き、蝦夷はその場で返答に困り、返事を先延ばしにした。蝦夷は再び阿部臣・中臣連・紀臣・河辺臣・高向臣・采女臣・大伴連・許勢臣らを招き、山背大兄が使いを送って来た事と、その伝言を詳しく皆に伝え、次いで蝦夷の基に仕える議政官に命令をした。汝らは斑鳩の宮に行き山背大兄王にこう伝えてこい『蘇我蝦夷は群臣の中に単の家臣の一人でしかない。どうしてその私が一人で次の天皇を決める事が出来ようか、唯推古帝の意言を郡臣に伝えただけである。群臣は揃って遺言は田村皇子が自分から天皇になると云え、との意味と考え、誰も異を唱えない。これは郡卿の決定である。私蝦夷の心ではない。私一人思っている事が有っても、亡くなられた天皇のお心を尊び言葉には出来ない。いずれその時が来るであろう、その時には申すであろう』と伝えろ」と云った。議政官たちは斑鳩宮に行き三国王・桜井臣を通じて大臣の言葉を山背大兄に伝える。山背大兄は使いの議政官達に疑問に思っている事を伝えさせる。    山背大兄は「推古帝の遺言を詳しく知っているか」「私共は詳しく知りません。唯大臣に云われた事を言っているだけです。天皇は病で床に就いた日に田村皇子に『国政とは重い責任があり、軽々しくあれこれ云うべきものではない。田村皇子、肝を決めて云え、だらだらと自分の気持ちを暈かしてはいけぬ』又、山背大兄王には『汝は未だ若い、あれこれかしましく言っては成らぬ。群臣の決めた事に必ず従うように』これが床の周りにいた多くの女王・采女達が聞いたところであり、又、天皇が口にされた言葉と聞いています」と答える。
大兄王は更に質問を続ける。「いま、遺言と言われたが、その遺言を一体誰が聞いたのだ」「私たちはそれは機密である為、知りません」。さらに山背大兄王は静かに、しかし、心の中を吐きだす様に議政官達に言った。「親愛する蝦夷叔父君を労しく思い、汝ら使いの者のみでなく、阿部臣ら重臣たちにも真実を教え諭すのであるから、良く聞いて欲しいのだ。今そなた達が言われた遺言とやらは少し私が聞いた言葉とは違う。私が推古帝が病重しと聞き、急いで禁中に参じ待機していると、中臣連彌気が迎い入れ「天皇がお召しになられる」と申された。進んで奥の中門に行くと栗隈采女黒女が迎えに出ていて、大殿に導かれた。そこには近従の栗下女王を初めとして女孺鮪女ら八人、合わせて数十人、推古帝の傍にはべっていた。田村皇子も居られた。天皇はお苦しいのであろう、私を見ることが出来ないご様子であった。栗下女王が「お召しになった山背大兄王がお傍に参っております」と申すと、天皇は床の上で頭を挙げて座り『朕は才能もなく身不相応にも天下の業を取り仕切り疲れ果て、それも終わった。もう長くはないと思う。山背王とは同じ蘇我の血筋であり、頼りにし愛おしく思っている。天位に付くと云うことは何時の世も大変な務めである。山背王、汝は未だ若い、その事を良く弁えて心を定めよと申された。この事はその時に座にいた多くの者皆が知っている筈だ。それ故に帝の温情あるお言葉を聞き、恐れお多く、又悲しく、その一方心の隅では小躍りする程嬉しく、何をしていいか手に付かない程であった。しかし落ち着いて考えてみれば、国を背負うと云う事は並大抵の者が出来る業ではない。我は若く、至らな過ぎる人柄で、何んでその地位に登る事が出来ょうか。その時が来れば私の心中を、叔父や重臣たちに申し上げようと思っていた。その機会もなく今になってしまっただけだ。以前の事だが私が叔父御の病気見舞いで奈良の豊浦寺に行ったことがあった。その時、推古帝は八口采女鮪女を私に遣わして言われた事は『汝の叔父の大臣は口癖のように汝山背のことを心配し、百年の後には成長して帝位に付ける様になるだろう・・・と云っている。自覚して心身を修め己を高める事だ』と申された事がある。はっきりとこの様な事実があるのだ。私は今回の大君の言葉を疑っていない。私はしかし天位など望んでいない。唯、帝が枕辺で言われた真の言葉を、皆にはっきりと知ってもらいたい。私は真の遺言を知りたいだけだ。 使役の方がたは言葉の橋渡しをする役目であるから、天地神明に誓って、此の事を正確に叔父に伝えて頂きたい』と申された。



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その1 その2 その3 その4 その5 その6 その7 その8 その9
その10 その11 その12

 木花咲哉姫と浅間神社・子安神社について 目次
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 その時歴史が動いた・箸墓古墳 目次
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