おとぎ話でない現実的歴史を伝えたい。日本の超古代史への誘い

◆蘇我太平記
      第11章      舒明天皇の病弱は蝦夷・入鹿の賦活剤 

  後継天皇が決まり政争が一旦治まり、日本書紀の記述も例の如く半島との消極的交流の記述の流れとなる。三月に高麗・百濟の遣いが来た。八月に唐に使いを出した。先の高麗・百濟の遣いを宮中に招き、九月に使者は帰った。十月に宮を岡本に移した。年が変わり、是年初めて難波にあった迎賓官全てを修理した。舒明三年三月、百濟王義滋が、王子豊章を人質とて来朝させた。九月に天皇は摂津の有馬温泉に湯治にため行幸し十二月に岡本宮に還った。四年十月、唐の遣い高表仁ら至り難波に泊った。大伴連馬飼を接待吏として船三十二艘・鼔・笛・多数の旗にて盛大に江口に迎え、「唐よりの使者が我が国に到着と聞き、お迎えに参りました」と挨拶をする。百濟・高麗の使者に対する待遇とは別段の扱いである。高表仁は「寒風がすさまじい時に多くの飾り船で歓迎を受け、有り難く感謝を致します」と答える。伶礼しく遣客を難波の迎賓館に導きその日に内に酒宴を開いた。五年一月の唐の使者が帰る。これは新しい唐に挨拶の使者を唐に送り、唐が返礼の使者を送り返した一連の外交事例であろう。六年ほうき星が南に見え、七年には東に見えた。六月、百濟が朝貢した。八年正月に日蝕があった。五月に長雨があり、岡本宮が水に浸かり田中宮に避難した。七月に敏達天皇の王子、大派王が蝦夷大臣に「近頃群卿・百寮の宮中への勤務態度が乱れている。今後朝の六時の出勤時間と朝十時の退勤時間に鐘を鳴らして節度を取り締まってはどうか」と提案したが大臣は取り合わなかった。大派王は可成の高齢と推察する。その為軽く見たか、その気が無いのか、こんな所にやがて蝦夷の日頃が問われる結果が有るのであろう。是年日照り続きで凶作であった。九年二月、巨大な流星が音を立てて雷の如くであった。人々は不吉の予感がした。三月、又日蝕があった。次に眼を引く話が載っている。その次第を述べると、蝦夷(えぞ)が反乱を起こし来貢しなかった。朝廷は大仁上毛野君形名を将軍として征伐を命じたが反対に敗れて逃げ、塁に立てこもり廻りを賊軍に囲まれてしまった。家来は逃げ出し殆ど空城となってしまう。将軍は唯おろおろして夜にまぎれて垣を越え逃走しょうとする。強気の妻はそんな夫を嘆いて[蝦夷に殺されるなんて、みっともない]と夫を叱り「貴方の先祖は海を渡り、山河を越えて四方を平らげ、今の世迄その武門の誇が知れ渡っている家柄でしょう、今戦わずに逃げ出し、あの腰抜がと末代まで恥をかきたいのですか」と酒を酌み夫に強いて飲ませ、夫の剣を抜いて自分は武裝し、十の弓を張り、数十人の女に弦を激しく鳴らさせた。夫は気を取り直し、残った家来を引き連れ打って出た。賊の頭は城に尚大勢の兵がいると思い、引き上げる。逃げ散った部下が集まり反撃にでて蝦夷を討ち負かし、大勢を虜にして大逆転の大勝利となった。
[上州の嬶天下と空っ風]と云うが、その話の出所は案外この日本書紀あたりではないか。チラッとそんな思いが頭をかすめる。
十年七月に台風があった。九月長雨で李の花が咲いた。十月有馬温泉に天皇が再び行幸した。百濟・新羅・任那が朝貢した。十一年正月天皇が車に乗ったまま帰還し来た。体調が更に悪化したらしい。ほうき星が西北に現れ、「飢饉を招くから見ないほうが良い」と人々は噂をした。天皇は死を悟ったのであろうか、大寺・大宮を作れと詔勅を下した。九月には唐の学問僧の恵穏・恵雲が新羅の遣いと共に来た。十二月に再び天皇は伊予の温泉宮に行幸する。広瀬川の辺に九重の塔が完成した。十二年四月天皇が伊予より帰り今の大軽町の厩坂宮に入り、十月に百濟宮に移った。十三年十月舒明天皇が崩じた。東宮(もうけのきみ)開(ひらかす)別(わけ)皇子(のみこ)[天智天皇]が十六歳で弔辞を読んだ。書紀の舒明記はここで終わっている。
用命天皇が逝去しその後を継いだ崇峻天皇が殺され時に厩戸皇子が十七歳、同じ年頃である。しかし厩戸は天皇になれず、推古帝が後継となった。此の度の後継は舒明天皇と皇位を争った山背大兄が最有力の筈であるが、蝦夷の意志でこれを避け、舒明帝の皇后宝姫を天皇に据えた。皇極天皇である。推古天皇の誕生時と同じ理由であろう。書紀は何も述べて無いが、これにより山背上宮一族の蘇我蝦夷に対する齟齬感は一段と強くなったと思う。舒明天皇の病気だが二度も湯治に行っている。有馬温泉と伊予は道後温泉と推測しているが、何れも古代から良く知られた温泉である。約一億年以上の白亜紀の花崗岩の割れ目から吹き出してくる塩分・炭酸分に含まれているナトリュウム成分が主な温泉で、リウマチに効くと言われている。加齢が早く進んだと考えられる古代、変形性の膝・脊椎の疾患、脊椎管狭窄症に悩み、痛みが波及して多臓器障害で死に至ったのではないかと思う。

 皇極天皇は敏達天皇の皇子で蘇我氏に殺された彦人皇子の孫芧(ちぬ)淳(の)王(おおきみ)の娘で皇后や天皇位になるには程遠い血筋であった。蝦夷の特別の計らいがあり皇位に付いたと思われる。蝦夷の子、入鹿は自ら国政をビシビシと執り父の蝦夷を出し抜く勢いが有った。その為盗人も怯え悪事が減ったと伝えている。書紀は例の如く、百濟・高麗・の使いが来た。難波の館で饗応の際、百濟の国内も王族間で乱れていると聞いていたので、その情報を接待役に訊かせたと述べている。筑紫に来ていた百濟の使史は「先に百濟からの人質としていた百濟王の弟は国に居る時に悪事ばかり働いた困った人物ですので、天皇の計らいでそのまま百濟に返さずに大和に留めて置いて下さい」と言う内内の願い事もあった。天皇はそれを受け入れた様子である。六月、雨が降らず大旱魃となった。七月になっても続いた。村々の祭司役の教えのままに牛・馬を殺したり、市場を移して封閉したり、水神様にお祈りしたりしたが、雨はさっぱり降らない、如何にすべきか、と郡卿は蝦夷の裁断を仰ぐ。蝦夷は「寺毎に大乗教の経典の要点をつまみ読みし各々の罪過樽を懺悔して罪報をまぬかれる様に作法通に敬意を示し仏に雨乞の法要をせよ」と命じる。七月二十七日に百濟寺の南の庭に仏の菩薩の像と四天王の像を掲げ、多くの僧を選び呼び寄せて大雲経を読ませた。蝦夷は手に香炉を持ち香を焚いて祈願した。翌二十八日に小雨が降ったが、法要を続けても効き目が無いので経読を止めた。八月一日に天皇は明日香村坂田の金剛寺の川上に行幸、跪いて四方を拝み、天を仰いで祈りを捧げた。雷が鳴り、大雨が降った。雨は五日も降り続き旱魃は終わった。天下の百姓は歓喜して「至徳の天皇で有らせられる」と礼賛した。九月の三日、天皇は蝦夷大臣に詔勅を出し、「百濟大寺を造営したい、近江と越後の人夫を懲用してこれに当てよ」と令を出す。更に諸国に命じて船舶を造らせる。その月の十九日に追いかける様に再び詔勅を出す。「今より十二月の間に飛鳥板葺宮造営に着工せよ。諸国より資材を調達し、東は遠江より西は安芸までの人足を集め建設にあてよ」。九月二十九日に越後から数千の人夫が到着した。十月には大きな地震が何度も続き雨も続いた。越後よりの人夫を宮中でもてなした。大臣も自身の館に越後人らを招き労をねぎらった。雨・風が続き雷がなり、春の様な気候は翌年に亘り続き、人々の不安をました。これらの記録から推測すればこの数年異常気象による国内の疲へいが目立つ。これは人災ではないかと私は思う。建築・土木の技術の進歩、仏教の国を挙げての興隆策の競合により大寺の建立や宮殿の建設が相次いでいる。植林などの意識が無かった当時、太古からの巨木の密林は見境なく伐採され、破壊せれて放置されたのでないか。是が日照りや洪水を招く。続く天武以来の壮大な大仏殿や全国の国分寺・国文尼寺建設計画で一見国の発展の大飛躍に見えるが、そのきしみを支えきれず国の底辺である財政面の悪化や、農産物減収がこの気候変動で加速し、無残な大民犠牲が重積したと考えている。
 この年、蘇我蝦夷は己の墓苑を葛城の高宮にたて、盛大は節会をもうけた。又、全国の大民を多数集め、二つ並んだ大きな生前墳墓の造営を始める。一つを大陵と言い蝦夷自身の墓、他の小陵は子の入鹿の墓で、死後に人を煩わせること無い様考えての事と蝦夷は弁明している。この集めた大民の中に山背大兄の領地の殆どの人が招集されていた。聖徳太子の娘の春米王女はこれを怒り嘆き「蘇我は国の政治を専横し、数限り無い悪事を働いている。天に二つの日は無く。国に二つの王は無い。一体誰の許しでこの様に大臣(おおみたから)を使うことが出来るのか」と抗議した。異常気象は尚続いている。二年二月、桃の花が咲いた。二十五日に霰が降り、草木の葉が枯れてしまった。三月十三日に難波の迎賓百濟館と周りの家が大火により消失した。四月七日に大風の大雨で気温の低下、人々は綿入れを三枚着て凌いだ。二十五日には近江の国で一寸程の霰が降った。その後高麗の使節が貢ぎ物を持って来朝した。『去年は来なかったが。』と記し、百濟の使いが来たが貢ぎの品物が少なく、強くその理由を詰問したと記録した。百濟の使いは『良く調べ御返事します』と答える。七月に河内の国の茨田池の水が腐り、周りの側溝も厚さ三・四寸ほど汚物が積もり、魚も腐り悪臭が漂った。これは寒さが一変、猛暑になり日照りが続く異常気象を推測させる。十月に群臣・伴造を宮中に招き宴会を開き叙勲を行った。国司には「入れ替えはしない。前に命じている如く任地に赴け。特に変わった事は無い」と布令した。蘇我蝦夷大臣が病気になり参内しなくなった。天皇に相談もなしに蝦夷は紫の冠を子の入鹿に授け、大臣の位になぞらえ任務を任せた。また弟を物部大臣と呼ばせた。祖父の蘇我馬子の妹は物部守屋の妻であった。その為その財力の残照により蘇我の威光が強大に成った面もあるのだ。それ故に物部大臣と呼ばせたのであろう。
 十月十二日に入鹿は大決心をする。予てから何かと蘇我氏の政策に対し異論を掲げ、批判の態度の傾向がある聖徳太子の上宮山背一族の弾圧の始めたのである。それは入鹿の一存で山背大兄王と言われているその大兄を取り下げたのである。大兄とは皇太子を意味し次の天皇になる権利の所持者を指す。入鹿は山背大兄を廃し、舒明天皇の皇子古人皇子を皇太子とした。山背大兄は前述した如く大乗仏教えの深い信奉者であった。己を捨て貧困で苦しむ者を救う。大民(おおたみ)に人気が絶大であった事は当然である。入鹿はこれに危機感を抱き今の内に何とかせねば蘇我氏の存亡に関わると考えた結果と思う。十一月一日、入鹿は小徳巨勢(こせ)徳(とく)太(ため)臣・大仁土師娑婆連を寄せ手の大将として斑鳩にある上宮山背館を襲わせた。この事の次第は既に文頭で述べている。「蘇我大臣蝦夷、山背大兄王ら、総て入鹿に滅ぼさると聞きて、怒り罵りて曰はく『嗚呼、入鹿、甚だ愚かにして専行(たくめ)暴悪(あしきわざ)す。汝が身命、又、危からずや』と言う」。と書紀は述べている。入鹿は次に気がかりな中臣連の懐柔策に乗り出したのであろう、中臣鎌子連を神秖伯に任じると令を下した。鎌子は再三これを辞退し、病気だとして、大阪三島にある別荘に閉じこもり出てこない。
 中臣鎌子には強い意志があった。蘇我氏は蝦夷に至りその最期は過ぎている。それ故に最大の対抗勢力上宮家を滅ぼし自族の安泰を謀った。何れ中臣氏に何かの働きがある。その予防策として鎌子は皇統の有力皇子との親交を試みていた。軽皇子がその目標であった。しかし軽皇子は脚の障害にて参内が殆ど出来ない状態であった。鎌子は軽皇子の宮で直接に皇子の身の回りの世話を申し出で、万が一の変事には自ら盾となり皇子の身を護る意志を示した。軽皇子は鎌子が意志が強く、云いだした事は必ず実行に移す行動派であることを良く知っていた。阿部氏出仕の妃小足媛に命じて別棟に鎌子の居宅を造って寝所も整え、皇子の傍で身の回りの心配をせずとも良いとした。鎌子は皇子の自分に並々ならぬ気配りをしている事を知り大変に感激・恐縮し皇子の舎人を通じて鎌子の感謝の気持を皇子に伝えた。「左様な恩恵を賜いて身に余る光栄です。至徳であられる皇子を誰が一体(いったい)陏(さまた)げることが出来ましょうか」。軽皇子は大変に喜んだと云う。鎌子は蘇我蝦夷・入鹿の専横を憎む一方、上宮一族が無き今、次の主動権を密かに狙っていた。




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