約二万年前、シベリヤの平原でマンモス・トナカイ・毛(け)犀(さい)等の大型動物を追って氷が張り詰めていた間宮海峡・宗谷海峡を渡り、北海道に達していた我我の祖先は、結氷で狭く成っていた津軽海峡を三三五五獲物を追ってこの列島に到着した。氷河期後の気温の上昇により間の海は広く深くなり、彼等の北に帰る道を閉ざされ列島に居を据える事になる。三内丸山や東北その他の遺跡で見る如く、我我祖先は決して未開の蛮族ではなく、続く縄文時代を通じ文化を向上させ農耕技術を畑作から効率が良い水田開発に移行させている。人口は超過疎で部族間の距離も広く摩擦もなく、自由の交流で文化水準を高めてきた。一万年以上の歯の化石により九州を除く中国地方まで北から来た種族は拡散をしていたことが証明されている。一番人口が多く勢力が有る部族は、千葉県北部の北総台地と言われる平坦な成田・佐倉一帯を根拠地としていたと私は考えている。全国に数ある古来からの神社の分布は太古の歴史研究には宝の山である。この地域には天神の天御中主尊、高皇産霊尊、神皇産霊尊、更には神代六代目の面足尊などを祭神とする多く神社の分布をみるが、その地方には稀有か皆無である。太古からの地形の変遷を勘案すれば、列島最高の居住条件を保ち、全国の貝塚遺跡の約半数を占める此の地区を、草創社会と言える大部落が初めての成りたった地域であると、私考を益々固めている。この地域の人口は増え続き、時代は弥生期に入り転換期を迎える。北総台地は砂地で当時の稲作技術では増え続ける人口や経済基盤を支える生産が最早出来なかったと考えている。その上、六代目の當主面足尊には直系の後継ぎがなく、内紛が起こり、分家の高皇産霊家の五代目豊受大神は影響下にある郡民を連れて東北仙台の近く松島湾一帯に移り自らを [東の君] と称し、日高見の国の独立となった。その娘伊佐子姫(伊奘(いざな)再尊(なみのみこと))を分家筋の(伊奘諾(いざなき)尊(のみこと))と娶(めあわ)せ後継とし、全国に広がっている部族の農耕技術の普及に尽力して、日高見の影響力の拡大を求めたと推測している。その夫妻の子供が天照大神であり、その後忍(おし)穂(ほ)耳(みの)尊(みこと)、瓊瓊(にに)杵(ぎの)尊(みこと)、ほほでみ朝、うがや朝、神武天皇・・・と現皇統に続いている。その古代を伝える初めての歴史書が秀(ほつ)真伝(まつたえ)である。秀真とは関東の事を指し文字通り関東地方の歴史の意味になる。この歴史書は蘇我氏らの策略と思われるが、世の表から追放され、昭和の中期に松本善之助氏が神田の古本店で写し本を発見、氏の生涯にわたる努力によりやっと日の目を見る事になり、一部の有識者の古代歴史研究に資しているのが現状である。しかし蘇我氏の時代、各豪族にはそれぞれ独自の歴史を秘蔵していて、唯一共通の歴史はこの秀真伝のみであったと考える。その知識は時勢を知る上で必須のものであった筈である。秀真には多くの臣・連の祖先の名が盛んに出てくるが蘇我氏ゆかりの名は出てこない。権勢の全て握り、天皇推古は姪、聖徳太子は外孫であり、他の多の皇子も馬子と血縁続きであった。影・日當りもなく途絶(とだ)えることない常に照らされている日の勢いに、群臣皆がひれ伏す現状、馬子は未来永劫の隆盛を信じたと思われる。近い将来、高皇産霊の皇統を上回る蘇我の後裔に恵まれ、皆が支持する新しい蘇我皇統の誕生の望みが、心の片隅の芽生えていても不思議で無いと思う。しかし秀真伝に祖先の足跡が皆無である事実、将来の蘇我氏皇統の出船に負の影響が有ることは明白である。蘇我氏は新しい歴史を作る必要を強く感じていたと考える。書紀には推古二十八年十二月、聖徳太子と蘇我馬子が相談して天皇記、国記、臣・連・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・百八十部(ものあまりやそとものを)合せ公民共の本記を作ったと簡単に記している。これだけである。しかし新しい歴史の編纂、正確には先代旧事本紀の草稿であるが、旧来の記録に深く考慮することも無く、一切を消し去り、お伽の類の神話の世界を作り出したのだ。その舞台は大和、九州、出雲周辺州に限定し、東北、関東、中部を意図的に無視、例えば『日本武尊、東夷を平て、還参とて未参ず。尾張の国に薧ませぬ』と記して素通りに近い扱いである。 説明が煩雑で混乱を招く。我が国で世に出た歴史書を整理して、より良き理解を図りたい。秀真伝が十二代景行天皇の御宇に三輪臣と大鹿島から奉呈された。それには遠い日高見より「列島の中心の大和の斑鳩に都を移せ」と天照大神の命令で、孫の火乃明暁速日尊が太玉命・大物主命・天児屋根命ら八百余の護衛部隊を引きつれて陸路、途中から海路にて河内国河上に上陸し斑鳩に宮を築いた。海路大阪湾に入ると波が高く荒れ、船は大きく揺れて、船上からはさながら海を飛んでいる感じであったと記されている。次の蘇我氏の造り出した新しい歴史は、出発した所には一切触れず空飛ぶ大楠船に乗り河内の国のいかるが峰に天降ったと述べ、この後約百年後に世に出た古事記・日本書紀は、火乃明暁速日尊の降臨には触れず、その弟瓊瓊杵尊ガ遠い空から九州の山の頂上に舞い降りて、その周辺の地域に根付いた。と秀真伝が述べる径時的の現実的歴史は根こそぎ消され、三代後の神武天皇が東征して長隋彦を討つたと短絡したものに成っている。蘇我馬子や太子の罪過の頂点は、造った新しい歴史で天照大神を女性に変えた事に尽きる。大神には和歌姫と云う姉君がいた。思兼命と夫婦になられ、大神を補佐して政治的危機を救った。姫は男勝りの才媛で現在我我が持つ天照大神のイメージそのものである。しかし全国神社名鑑を探しても思兼命が祭神の社は一・二あるが、和歌姫が祭神の神社は私が見た限りでは一社もない。伊奘諾尊の妹の白山姫が多くの末社を持つ加賀一之宮の白山神社の祭神として鎮座しているのと対象的である。前述したように古来では中国に女帝はいない、女性の推古天皇を異例と見なす中国の認識をかわす為、和歌姫と弟の天照大神をすり替え、太古の先例とした。私はその様に推理している。最近藤原日本書紀と書紀を呼び、その内容を論ずる著書が多い。しかし書紀は馬子・太子の草案になる先代旧事本紀が原本ある事はその記述を見れば明白である。より現実に近く言えば蘇我日本旧事本紀であろう。後世の藤原氏の日本書紀の編纂に際し当然この点が問題になった筈だ。しか蘇我氏と同様藤原氏も女帝を頂いていて、一旦出来上がっている歴史を敢えて変える必要もなく、又、その意志もなかったと思う。以来古事記・日本書紀は歴史の聖典として続き、天照大神は引き続き女性とされ、今も殆どの人がそれを信じている現状である。 本筋に文脈を戻し別の角度から考えよう。馬子・聖徳太子は新しい歴史編纂では渡来系人脈の貢献による国勢の振興ぶりを全面に大きく記録し、超古代からの縄文人社会の関わり合いを過小評価した記述にした。対抗勢力が息の根が吹き返すのを妨ぎ、将来に渡り蘇我氏権勢を強靭に保つためともいえる。しかし太子は二十九年二月に急逝している。旧事本紀の編纂が始まったのが前年の二月、その間一年、長大の歴史を手掛けるには無理と思う。長い準備期間がその前に有った筈だ。神代の記録をいかに取扱うか、馬子と太子の間の意見の隔たりが大きくなり、太子は悩んでいた。その様に思えるのだ。体質もあるが、心の苦しみが寿命に影響した。太子の死因は疫病であるとの説もある。夫人膳氏の献身的な看病、その為、夫人は一足早くその前日に他界している。一族の憔悴ぶりが目に浮かぶ。一夜の急の死であった。太子の直接の死因は矢張り心筋梗塞か、脳出血だろう。馬子との大きな意見の隔たりは、和歌姫と若仁(天照大神)をどう扱うかではなかったか。反対者がいない太子の死後、若仁を女性したのは馬子の一存では・・・推理は尽きない。 再度述べるが、秀真伝の伝える神代の歴史を己に益なしと無視し、蘇我氏は歴史を非現実的のお伽話に類したものとした。その後の古事記・日本書紀はそれに倣い、更に火の明暁速日の斑鳩降臨を削除し、新たに瓊瓊杵尊の高千穂降臨を作り出した。その高千穂が弐か所、薩摩と日向にあり互いに本家争いをしていると聞く。・・・これに関しては今回は敢えて説明を避けたい。 馬子・太子の新しい歴史では秀真伝の差し支えない部分の地名を省き記述をそっくり残している。馬子その他の当時の為世者が良く秀真伝を知っていた証拠である。その歴史、即ち先代旧事本紀を日本書紀も写し取った如く真似ている。旧事本紀の聖徳太子の逝去の記述を例として記すと『二九年春二月己丑朔癸已に、夜半に皇太子上宮厩戸豊聰耳尊、斑鳩宮に薧ましぬ。この時に、諸王諸臣及び天下の百姓皆共に長老は愛児を失える如くして、鹽酢の味、口に有れども嘗ず。少幼は慈しみの父母を失える如くして、以て哭泣る声、行路に溢り。乃ち、耕夫は鉏を休み、春女は杵せず。皆曰く「日月輝を失いて天地既に崩ぬ。今より己後、誰将持む」といふ。』これ以上の名文、これ以上の哀悼の字句はないと思う。しかし日本書紀の同じ個所を開き読んで頂ただきたい。同字、同文がそっくり述べてあるのだ。日本書紀の原本は旧事である証拠であろう。太子は大乗仏教の篤い信奉者であつた。衣食住が十分に足りていても更に十分な上を望む人びと、その本能に逆らう教義を熱心の説き、時にはその実践のため、身を犠牲にして難局の渦中に飛び込こまんとの姿勢を見せる太子。その故に大民の間には人望が厚かったのであろう。太子はその月の内に磯長(しながの)陵(みささぎ)に埋葬された。エジプトには王家の谷があるが、蘇我氏もそれに似て磯長には蘇我氏ゆかりの皇子・王族・天皇陵が集中する。敏達天皇も改葬されて此の地に移り静かに眠る。皆、方墳だが聖徳太子陵は円墳である。太子の生前の願いであったかどうか、知る術はないが。 この年新羅が任那に最後の攻勢をかけ、任那は降伏した。天皇は新羅を討たんとして群臣に謀る。田中臣は「先ず先方の様子をみて、尚、反抗する時は攻め込むべきでしょう。使いを出してその出方を見るべきです」と言上する。中臣連国は「任那はそもそも我が宮家なのです。直ぐに軍を集め新羅を討ち、任那を取り返して百濟に与えるが良いと考えます。新羅にこれを許しては将来良い事は有りません」と意見を述べる。田中臣は「それは駄目です。百濟は信用が置けない国柄なのは御存じの筈です。道を聞いても騙して困らせます。その申す事は全く出鱈目です。百濟には任那を預けられません」と意見の一致をみない。出兵は見送りとなった。朝廷は吉士磐金を新羅に、吉士倉下を任那に遣して事情を聞く、新羅の国王は「任那は倭国の保護国である事は知っています。ですから任那をどうしょうなど思った事などは有りません。宮家として大切に扱い、我我に疑いを向けないで下さい」 朝廷は疑いを解かず、奈未智洗遅を吉士磐金の参謀、又、任那人の達率奈未遅を吉士倉下の参謀にし、船団を仕立てて船出の港で風待ちをする。船団は津津に溢れこの有様を知って新羅・任那の使いは驚き国にかえり、使者を交代させて新しい調を献上した。磐金は使者に向かい「此の度の進攻は前と違う、任那への侵略は絶対に許さない」と船団を率い海を渡った。新羅の国王は大軍に驚き戦う前に降伏を申し出る。将軍達は軍議を開きその状況を天皇に報告する。天皇は新羅の申し出を受け入れる。 十一月、磐金・倉下らが新羅から帰還した。蘇我馬子は新羅での始終を両名に訊くと「新羅は我が国が新羅に大軍を送る事を知って恐れ、使者に調貢をささげて此方に来る途中でした。大軍が船で押し寄せて来るのを見て貢ぎ物を置いたまま逃げてしまいました」と報告する。馬子は早く船団を出し過ぎた と苦が笑いをした、こう書紀に記録されている。時の人はこの始末を「境部臣と阿雲連は新羅から多くの賄を受け取り、馬子に和解を勧め、大切の任務も程ほどに帰って来てしまった」と噂でもちきりであった。 諸氏は継体天皇以前よりの新羅・任那・百濟との交渉をどのようにお感じであろうか。ことが起こり自国の危機と感じるや、常に調貢して事をうやむやにする。受け取る方は欲望を満たされて怒りが治まり赦してしまう。この繰り返しで最後は半島への地歩を失う結果となってしまった。政治とは我欲の塊、それは今も昔も同じ、外交下手も同じである。人様ざま、それで良い、との意見のお方も居るかもしれぬが。
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