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◆神武以前三代記 瓊瓊杵尊―彦火々出見尊―鵜葺草葺不合尊 |
第2章 瓊瓊杵尊の足跡(その1)
瓊瓊杵尊の関してはこのホームページの此の花咲哉や姫と浅間神社・子安神社の中で姫が生んだ三つ子の男児に関して可成詳しく述べております。この三つ子がその後の皇統に深く関係し神武天皇へと時代が移ります。文の重複を出来る限り避け、要点に絞って説明を加えます。天照大神は女性の神様として極一部の人を除いて約1500年近くの間何人も信じて疑わない程日本人には心の表懲でした。しかし天照大神は男性でした。昭和48年松本善之助氏の偶然の発見により秀(ほつ)真(ま)伝(つたえ)の全容が解明され、この根拠を原資として古事記・日本書紀・先代旧事本記・古語拾遺の記述を考察すれば、天照大神を男性としなければその後の日本史の説明がつきません。
伊奘諾(いさなきの)尊(みこと)・伊奘(いさなみ)再尊(のみこと)ご夫妻は健在で東西奔走の最中に、後継ぎとして僅か一・二歳の長男若(わか)仁(ひと)君を正式に踐祚(せんぞ)の大礼を経て、天照大神として後継者にしました。未だ1500米程の標高であった今の富士山、當時は原見山とよばれていてその山腹に宮がありました。原見山は文字通り、頂上付近では360度の視界一杯に樹木が生い茂り湧水が豊富で、當時から急に普及してきた湧水を使っての棚田で稲作が盛んであったと考えます。若仁君が青年期に達すると十二の后の制が制定されました。これは後継の君の不在の予防の為、東西南北の局に三名ずつ計12名の后妃を置き長く後継の男子の途絶えを防ぎ王権を安泰にする目的でした。後世の徳川氏の大奥、秀吉の女あさりや歴代天皇や豪族、大名の一夫多妻も同じ意図で、秀吉を例にとっての好色一点張りの考察では、正確の評価はできないと思います。素戔鳴尊は和歌姫・若仁四姉弟の末子でした。性格異常との思われる特異な性格で父母の伊奘諾・伊奘再夫妻の心配の種でした。その素戔鳴尊が十二后の一人北局の内(ない)侍(じ)早子と特別の関係になり、それが明るみに出て兄弟の間が険悪になり、高天原を揺るがす大騒動になったのです。天の岩戸の神隠れは素戔鳴尊の余りにも粗暴で狼藉の限りに身の危険を感じた若仁(天照大神)が身を守るため裏山に隠れたのが事実と推定しています。その結果として素戔鳴尊は罰せられます。それを裁いたのが素戔鳴が唯一人慕っていた四人姉弟の長女和歌姫の夫君思兼命でした。素戔鳴は自身が裁かれたのを逆恨みして思兼・和歌姫夫妻が主で近江野州川の宮で留守を守もっていた和歌姫に仕返しをしようと野洲川を登ってきます。大騒動に成り古事記・日本書紀・秀真伝で詳しく記述されている高天原の宮殿は、私の考えですが、岐阜高山の中心地を流れる宮川の支流安川の所に立つ宮です。しかし川を挟んで逆上した素戔鳴尊に対峙したのは一歩も引かぬ男裸足の気丈な和歌姫であり、その場所は野洲川であると秀真伝には明記されています。この記述を解釈すれば混沌としいる神代の事柄が絡んだ糸が解れるように解ります。全く意味が通じない古事記・日本書紀の記述は策意で不明な文脈にしたと思わざるを得ません。・・・古事記・日本書紀・旧事は素戔鳴尊の対峙の相手は女神の天照大神とし、しかも場所は明かにしていません。文脈も乱れ故意と思われる程前後を逆にして意味が全く解りません。安川と野洲川、太古の記録では平仮名・片仮名は有りません。古事記は萬葉仮名、日本書紀は漢字で記されてあり、安川(やすかわ)・野洲(やす)川(かわ)の区別はその記述からは解りません。誰も気付くかなかった落とし穴です。始め逆上していた素戔鳴も次第に怒りが収まり、和歌姫の言い聞かせるようなその後の素戔鳴の身の振り方の説得に素直に聴く様になり、出雲への流浪の旅立ちをします。日本書紀にも詳しくその間のお二人の話合を記述していますがお伽の世界その物、日本書紀の一番汚点となる箇所でしょう。ある史家はその内容より実は二人は夫婦であったなどと述べています。この項は誓約(うけい)と言われ重要な箇所です。約束を互いに誓い合ったの意味しょう。私の他の拙著で詳しく述べてありますので重複の説明は避けたいところです。文脈の流で契約の理解が絶対に必要の機会には再び詳細を述べたいと思います。素戔鳴尊は出雲を流浪し、伊吹戸主命(月読尊の御子)の弟で簸川の川上で村長をしていた脚摩乳・手摩乳の娘奇稲田姫を八岐大蛇の餌食になる前、間一髪で救いこの奇稲田姫を娶り大己(おおむ)貴(なちの)神(かみ)が生ます。この神が後に大国主命と呼ばれることになります。この話は神社の祭礼などで素戔鳴命と大蛇が格闘する神楽として上演され、知っている方も多いと思います。その後素戔鳴尊は幸運に恵まれ、伊吹戸主命の援助もあったのでしょう、出雲で有力な国を作り上げ、人々の尊敬を集める統治者となりました。しかしその子 大国主命は父親の苦労など知らず成長します。先の誓約(うけい)により天照大神の長女竹子姫(別名田心姫・沖島姫)【北局の早子との間の娘】を妻として嫁がせます。可成の姉さん女房だった筈です。大国主命は稀にみる好男子で活動家でした、海上交通も可能になり半島とも交流が有ったようです。女癖もかなりの者でした。竹子姫は正妃として嫁いだのですが、土地の豪族の娘と熱烈の恋愛の末に竹子姫を正妃から下ろし、その娘を正妃にすると云いだしたのです。父親の素戔鳴は先の誓約の事もありますし大反対でした。しかし大国主命の意志は固く最後にはそれを許してしまいます。完訳秀真伝によりますと大国主命と竹子姫の間に四人の子供が記録さています。竹子姫の立場は全く有りません。憤懣やり方なく未だ幼い二人の子供を出雲の残し高天原に帰って来てしまいます。それに対し出雲からは何の詫びの使者もなく、音沙汰なしです。これは出雲の高天原への侮辱でした。高天原では人々の間で出雲に対する不信感が高まり、それは『出雲討つべし』の総意に結束され、多くの神々が参集する今で云う決起大会に発展します。高天原には当時今の民主主義的な気風が有った様に感じられます。その結果まず使者を送り、出雲の出方を見ようと天照君の長男北の局の典(すけ)松子との子、天捕日尊を送り、その後その子供の大背飯御熊野命、次に国魂命の子天稚彦(あめのわかひこ)を送りますが総てが徒労に終わり、稚彦が殺される非話になります、この詳細は他書で書きましたので省略させて頂きます。高天原は出雲征伐の決心をして実行に移します。その大将が下総の国の一の宮、香取神宮の祭神径津(ふつ)主(ぬし)の神、常陸の国一の宮、鹿島神宮の祭神武(たけ)甕(みか)槌(つち)命(みこと)です。両神は出雲に直行、大国主尊に直談判し、此の度の不始末に対して国を開け渡せと強要します。「私の一存では計り兼ねます、後継ぎの事代主の考えを聞いてください」事代主命の母は高天原に帰ってしまつた竹子姫でした。「おおせの通り高天原に従いましょう」と事代主命は答えます。大国主尊は今一人の土地の豪族の娘との間の男子武(たけ)御名方(みなかた)命(のみこと)がおりました。「その子の考えも聴いて下さい」と申します。武御名方命はこの降伏には大反対で、武甕槌命と争いになり、力に負けて手の半分をちぎられてしまいました。多分逆手を取られ肘関節が脱臼したのでしょう。武御名方は逃げて逃げます。其れを追って信濃の諏訪湖の近くで武御名方命を追い詰めます。「これ以上逆らいません。此の地から出る事は致しません。代々手足となって高天原に仕えます」と降伏し。この場所が今の諏訪大社で祭神は武御名方命で今の御代に続いているのです。
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