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◆神武以前三代記 瓊瓊杵尊―彦火々出見尊―鵜葺草葺不合尊 |
第2章 瓊瓊杵尊の足跡(その2)
高天原の上層部には多年心配な事が続いていました。それは九州、特に福岡県・熊本県の大陸・半島よりの移民集団でした。特に大陸からの集団は優れた技術で経済の発展や、人口の増加で中国地方・更には近畿地方に進攻してくるのは近い将来の事でした。南の鹿児島県には琉球からの移住集団がいて、さらにその後ろに控えている呉の国など。 山陰地方は秀(ほ)真(つま)伝(つたえ)では細(さい)鉾(ほこ)千足(つたる)の国となっています。丹後の宮津に宮があり、晩年に成り豊受大神は日高見から此の地に移り政務をとりました。今の籠神社の奥の院、真名井神社がその宮の場所だと言われています。敦賀の近くの多賀大社の所には、これも陰居した伊奘諾尊が宮に入り、近くの越前の国一の宮の気比(きひ)神宮(じんぐう)も神代から外敵に備える今で云う師団部隊機構の跡地と考えられています。その他富山県は全国一の四千余りの登録神社の約30%、岐阜県では20%が神明社で主祭神が天照大神です。外からの進攻の備え富山平野などに展開した子孫などの産土神社となり今に残った神社と考えます。
高天原の当面の対策事項を列挙しましたがその中で出雲の後継者大国主命は最も危険人物と考えられていたでしょう。父の素戔鳴の苦労なども知らず、活動的な性格で半島によく出かけるため、半島の武力勢力と組んで高天原に挑んでくる可能性を疑われたのだと思われます。しかし出雲の心配は取れました。次に必要な一手、私の推測を述べますと高天原王権には多くの宮が有りました、各々の宮には王権中枢の人物・近親等がそれらの地域を統率していて、その中核は東北多賀城の壺の宮で、天照大神の後継者忍穂耳尊が統治していましたが、大陸半島・琉球列等からの移住民の脅威もあり、列島の中央近畿地区にその中枢機構を移す必要に迫られていたのです。天照君は忍(おし)穂(ほ)耳(みの)尊(みこと)に宮を列島の中央に移す様命令を下します。忍穂耳君はこれに対し「自分は老齢であり若い二人兄弟の兄奇玉火乃明にその役を務めさせて下さい」と願います。二人の兄弟とは、兄が奇玉火乃明尊、弟が瓊瓊杵尊です。弟の瓊瓊杵尊は兄より切れ者で関東地区の新治に新田開発に既に取り組んでいたと思われます。天照君はこの申し出を許します。火乃明の尊は日高見より280人余の警護の部隊とその他600名を従え陸路今の奈良市付近を目指し出発します。部隊は早春の出発でしたがダラダラと進み道筋の大民の田起しの時期と重なり、民等の不平・不満が次第に嵩じてきます。この事が天照大神の耳に達し、当時の天照君の宮伊勢の伊雑に来ていた瓊瓊杵尊を使者として千葉迄来ていた部隊を海路変更し大阪湾に上陸させたのです。先代旧事本記に詳しく、秀真伝には更に詳しく記述されていますが、古事記・日本書紀には全く記されておりません。面白い記述が有ります。四国と紀伊半島の間の海は普段でも波が荒い所で有名ですが、その日はやや強い低気圧の圏内で荒海の為でしょうか波はより高く『舟は上下に激しく揺れ、舟の上からは真柄(さながら)空を飛んでいるようだ』と秀真伝は述べていますが、これに対し旧事は『空飛ぶ磐楠船で河内の川上の哮峰(いかるがのみね)に天降った』と述べています。何れが現実的に事実を伝えているか言を待ちません。上陸後始めに宮殿を立てた所は今の法隆寺に近い斑鳩(いかるが)でした。旧事ではこれを哮(いかるが)の山頂に天から降りたとしているのです。その後がいけません。先住の大民を使い供の部隊も苦難の連続が一年近く、宮殿が完成し祝賀会も終わりました、しかしその翌日火乃明尊は高殿から南の空を見渡し、その風景が幼いとき父母を過ごした熊野の空によく似ているのに感動して急に宮を少し南の飛鳥に移せと云いだしたのです。日高見から尊の補佐役として供奉していた事代主命(二代目大物主、また初代とも言われている)、 又、同じ補佐役の天児(あめのこ)屋根(やねの)命(みこと)も大反対でした。「一体何を考えられているのですか。風景が似ているから都を飛鳥に移せとは、多くの大民や、部下の苦労を何とも考えないのですか」。補佐役の頭、太玉命は「我々は尊有っての補佐役である。此の事を忘れてはいけない。尊が喜ぶ事に従うのが家臣としての本分ではないのか」と諭します。「太玉命、貴方は尊の母方の叔父でしよう。身内として尊を立派な君主とするため指導する立場では無いですか。貴方が無法図の人柄だか尊にも尊敬すべき人格の欠片(かけら)もない。最早臣下としての礼節は取りません」と二人の補佐役は憤然として宮を離れ、事の一部始終を伊雑の天照大神に報告します。民有っての王権であり、国である。これは天照大神の信条でした。ここで火乃明尊・太玉命は大神の信頼を完全に失い見放されたと思います。
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